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2012年2月28日火曜日

ケる子のういろう記(2012年2月9日~11日宮城県東松島)




2012年2月9日~11日の三日間。宮城県東松島の小野駅前仮設住宅に滞在させていただくことになった。東松島は松島と石巻のちょうど中間部にあたる。現在(2012年2月)も津波被害の為、JR線の復旧の目処はたっておらず、代行バスが走っている地域である。今回いっしょに東松島に向かった吉澤氏は鍼灸師。彼は鍼灸の治療で、今回5度目の被災地訪問となる。「自分が井戸を掘るだけじゃなくて、井戸の掘り方を伝えるようなことが出来ないかな」。数ヶ月前、酒盛りの席でポロッっとこぼれたことば。気になったのでどうゆうことか聞いてみると、どうも青年協力隊のボランティアの人のことばらしい。自分が現地を去ったあとでも、方法を伝えられれば、そこに住んでいる人達自身が井戸を掘り続けることが出来る。自分が治療するだけでなく、その場所に住むその人自身が、自分で元気になれることを伝えられないだろうか、そんな話をした。わたし自身も、震災があった後「自分で出来ること」から始められるケアのワークショップをしたいと考えていたから、何かきっと、方法はあるんじゃないかと、とりあえず今回いっしょに行ってみて考えてみたいと思ったのだ。


一日目。
わたしははじめての被災地への訪問。東北は絶対寒いと聞いていたのでぶくぶくに着膨れして行った。松島駅まで仮設住宅の自治役のTさんが車で迎えにきてくれ、小野に向かう。広い、平らな土地が広がる。空も広く、風は強い。雪は積もっていなかった。広い土地だなぁと思いながらも、もしやとはっとする。「このへんも家がいっぱいあったんだよ」。所々、家の土台がある。それがなければ、ただの平地だとしか思えない。それくらい何もない。「きれいになりましたね」と吉澤氏。「なぁ~」とTさん。ここに「あった」とゆうことに対する感覚、そこからわたしはよそ者なのだとはっきりと気づく。よそ者であり、見えないものが見えない、とても鈍感な人間なのだと、まずは肝に銘じようと思った。
今回私たちが主にいたのは仮設住宅の集会所。15畳くらいのスペースに、図書棚と調理場と机があってここが主な吉澤氏の治療スペースとなる。到着するとおばあさん達が4人くらいがちゃぶ台に集まっていて、「こっちおいで」と招いてお菓子やお茶を並べてくれた。「これ食べぇ」とお茶請けに持ち寄りの漬け物がどんどん出てくる。話には聞いていたけれど、こちらの人達は飢え死にさせてはいかんというくらい、食べ物を勧めてくれる。漬け物はみなとても美味しく、「これ、手作りですか?」ときくと。「そだよ。でも大きな漬け物壷はみんな流されたぁ。」と言っていた。

少し一服して、吉澤氏の治療スペースを作って治療所を開設。今回のあたしの作戦(?)は受付ノートを書いてもらって待ってもらっている間に色々身体のことの聞いたり、お話をしてまずはリサーチすること。あとはマッサージをしながら、自分で出来る、気持ちいい身体の動かし方についてお話していくこと。「何か残せるものを」とも事前に相談していたので、ちょっとしたプリント(かんたんな操体法という身体の動かし方)を作って手渡したりもした。


大体一日に10~20人くらいのお客さんがくる。集会所なので、ぶらりとただ立ち寄る人もいる。そんな中で色んな人の話を聞く。津波の水は真っ黒だったことや、地震の直前は普通にタイヤキを食べていたこととか、体育館で泳いだ話など。人々が話すことは、わたしが普通に考えていることなんてすっかり超えてしまってる。一見穏やかに思えるこの日常の中で、誰もが実際には想像出来なかったようなことを体験してしまい、それらを抱えて暮らしている。足が痛むというおばあさんの足をさわってみると、すっと伸びたきれいな足先だった。「とてもしっかりした素敵な足ですね!」と言うと照れながら「農家やったから」と答える。ここの年配の人達は、どこかに不調を抱えながらも背がすっと通っていて、力強さを感じる人が多い。漁師、農家と言った自然産業に携わる人が多く、暮らしを支えていたのだ。身体の形から、その人が踏みしめていた大地を思う。


二日目。

午前中、吉澤氏治療の傍ら、今日も、色々話したり動いたり。そしてお灸談話を導入。お灸談話とは吉澤氏が知り合いの方から「おれも何かしたいので、これを持って行ってくれ」と預かった市販の自分で出来る簡単なお灸を使って、治療待ちの人とお灸をしながらお茶を飲んでしゃべること。初お灸の私も、ポイントを教えてもらって、来てくれた人に伝える。しゃべりながら、皆さん手やら足からプワプワ煙が出ていて、お灸のもぐさの香りが漂う。不思議な光景だがリラックス出来る。昼からはまた別の体操教室の人が集会所にやってくるらしく(やはり定期的に運動出来る習慣を作る為なのだそう。だから今後もダンスは、ニーズはあるはず。)治療所を一旦閉めて、地元のKさん一家が車で被災地沿岸を案内してくれることになった。
覚悟はしていたけれど、言葉を失う光景は一年経とうとする今もあるのだ。建物が斜めに傾むいて浸水している様子や、がれきの山。そんな中で一度は砕けて、流されたであろう墓地の石がひとつづつ丁寧に、人の手によって立て直されたあとを目にする。ボランティアの人達の手があって助かったとKさん達は話していた。
はじめ、カメラを向けようとした時、手が止まった。けれど、と思い「あったことを、話したいから」と口にしようとするが、うまく言葉が出てこない。運転手のおじさんが「写真とりたい所があったら言って、ゆっくり走るから」と。それからおばさんは丁寧に、今走った場所が以前はどうゆう場所だったのか話してくれた。道沿いにポツポツと大きなカメラを持った人が歩いている。「もうすぐ一年だから取材の人が増えて、そっからまたきっと減るんだぁ」。

74名の児童が亡くなった、大川小学校の前を通る。一旦停止してくれたものの少し様子がおかしい。体育館に入る、記者のような人が見えた。「降りますか」と聞かれたけれど「いえ、いいです。」とそこをあとにした。「ここはやっぱりしんどい」と娘さんは言い、「あの人、なしてなぁ、はいらねぇでなぁ、はいらねぇで」とおばさんは呟いていた。それは、私がここにきてはじめて聴いた、小さな叫びのように響いた。ここにいるあたしも、あの記者の人も、何も変わらないじゃないかと思う。カメラを向け、見たり聞いたりする。それでも、話してくれようとする「ここ」の人達に対してあたし達は何が出来るのだろう。その後も車で走り沿岸部をまわり、帰りは道中にある焼き芋屋さんで「病院の帰りはいつも買って帰るんだ」とおばさんは焼き芋を買ってくれた。金色のほくほくした焼き芋はほんとに優しい味がした。


三日目。
「おっはよーございまーす!」私たちを気にかけて、今日もTさんは朝ご飯を持って来てくれる。昨日は和食、今日はイングリッシュブレイクファースト(パンに卵にコーヒー)!Kさんは料理上手なのだ。元気になってもらいたいと思って来ていたのに、現状はこちらのほうが「何やっとんねん、しっかりせな」と思わされる。当たり前のことが当たり前でなくなった土地で、当たり前のことを当たり前に出来る尊い人達が復興を生きている。
今日は集会所で炊き出しがあるので、治療院は仮設住宅の一つだけあいている一室に一時だけお引っ越し。わたしは今日は炊き出し組。一昨日の夜ごはん時に、「甘酒が呑みたい」という話が出て「炊飯器で作れるらしいですよ」と迂闊に答えた為、急遽甘酒を作る係になったのである(作ったことないのに)。
炊き出しにはRQ支援センターの女性が中心になって来ているグループと、みまもり隊という元は農業の支援をしていた学生ボランティアの人達がきていた。流石に慣れているのだろう、のべ40~50人くらいの炊き出しがささっと準備され、お昼時の集会所が賑わう。甘酒も昨晩からレシピを検索して作ったかいあって、おばあさん方が喜んでくれたのでうれしいかった。

その後、炊き出しボランティアの女の子達が「肩が凝るのだ」と話していたので「肩こりに効くダンス」の話をして、ちょっとやってみることになった。気持ちの良いと思う方向にどんどん身体を動かして身体の歪みをとる方法(詳しくはプリントPDF)。これを繋げるとダンスになるんだよ、という話をしてちょっとだけ踊ってみる。女の子たちがわいわい手を振る。「普段どうゆうダンスをしてるんですか?」ときかれたので「多分、、コンテンポラリーです」と答えると皆「しらねぇ」と言っていた。

帰る時間が近づいてきたので、帰り支度。昼すぎからはここでデジカメ教室をやることになっていると話している。ここの活集会場の活発さに驚く。この小野駅前仮設では「小野駅前郷プロジェクト(http://onoekimae.exblog.jp/)」という復興プロジェクトを仮設の住人達自ら立ち上げようとする動きが出てきている。資金や行政との兼合いなど、問題はたくさんある。何せ立ち上げようとしているのは、被災地の住民自らなのだ。けれど「自分たちから動かないと変わらない」とKさんはプロジェクトについて話していた。このような被災地の人自らの動きを援助出来る仕組みを考えていくことも、これからの復興支援の一つの課題だと思われる。
帰るときも荷物を減らす為にぶくぶくに着膨れる。寂しいなぁと佇んでいると「それは北海道か、スノボですよね。」と女の子につっこまれる。やはり着込み過ぎだった。「ばいばーい」と見送られ、車に乗り込む。
帰る道すがら窓の外に目を見やる。目の前に広がる何もない景色に、胸がかさかさ音を立てる。それなのにまるで親戚の家を離れるみたいで、幼い頃、毎年父の田舎に行った帰りには、寂しくて泣いていたことを思い出した。



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