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2011年7月20日水曜日

C.I.co. 復興支援第1弾 会津若松へ

熊町小学校の6年生
大野小学校の校長先生と

 「ダンスアーティストによる復興支援マッチングサイト」に登録して初めての仕事は、以前から縁の有る会津若松市での活動。JCDN佐東さんと、アーティスト側は、C.I.co.の鹿島聖子と勝部ちこ、音楽家/ピアニストのRicoの3人体制で臨んだ。

概要)
日時:2011年7月3日(日)〜4日(月)
メニュー:
 ◉大野小学校6年生、熊町小学校6年生対象に45分のWS 
 ◉会津若松の大人対象WS 2時間×2回、
 ◉会津若松にて教育委員長、文化振興財団職員、地元事業家、らとの懇談会

レポートは以下の項目で読み進んで下さい。
1)    何故、会津?
2)    何をしたか?
3)    ピアニストRicoの所見
4)    原発に思う事


1)何故、会津?
ご存知のように、福島の中でも、会津若松は震災の被害をさほど受けていない内陸の街。しかし問題は、そこが「福島」に含まれているという事と、原発の町、大熊町からの集団避難を受け入れている所に有る。
東京からの新幹線が郡山に近づくと、屋根にブルーシートをかけた家々がちらほらと見え、磐越西線に乗り換えても、まだその光景が暫く続く。しかし、会津若松に入ると、以前と変わらず落ち着いた町並みがあり、文化の香りがしっかりと漂う。ただ一つ違うのは、観光客が激減している、ということ。明るい景色に不似合いな程、ひっそりしている。

私たちは、震災の直前、2月末にここを訪れている。会津若松風雅堂の山宮さんの活躍で、4年越しの願いが叶い、コンタクト・インプロビゼーションのワークショップを再開する事が出来た。そして勢いに乗って行こうね!と誓い合ったのもつかの間、3月11日に、大きな横槍が入った。横槍どころではない。
全てを狂わせる物理的な災害に、許し難い人災がかぶさり、福島の地は何重もの困難に見舞われている。
事前に電話で話した山宮さんの声は、やはり元気がない。2月に知り合った会津若松市教育委員長の前田さんが、東京での私たちのワークショップ(WS)に来て下さった時に、「避難して来ている子どもたちは、本当に苦しいんですよ。でも大人の私たちも、大変です」というお話をされ、それでもコンタクト・インプロビゼーションのWSに参加した事で、心が軽くなった、とおっしゃった。
そうだ、コンタクト・インプロビゼーションは、被災地で被災者に受け入れられるかも知れない。役に立つかも知れない!

私たちは、今、会津に、呼ばれている!

佐東さんの素早いコーディネートが後押しし、かくして、私たちの第1回の復興支援は会津若松に赴く事になった。

2)何をしたか?
到着初日の夕方は、会津若松市の大人向けのWS。こぢんまりと、しかしサミットWSとも言える要人たちに向けてのWSとなり、今後、私たちの活動が復興支援の可能性を持つかどうかが試される機会ともなった。丁寧にウォームアップをした後は、音楽家Ricoの参入で、普段のコンタクト・インプロビゼーションのWSとは少々趣を変え、身体で音を奏でること、楽器を鳴らす事、動きを音で表す事、などの内容に突入する。実際に初めてコンタクト・インプロビゼーション(的な)WSを体験する人達も含め、徐々に身体と意識の繋がりが滑らかになってきて、夢中になっていく感じ。大変な日常で疲弊している心と頭を、一旦、身体に支配されてみるのは、結構効果の有る事だと思う。

ボディパーカッションに挑戦
2日目の朝は、廃校になった校舎を急遽使用可能にして、大熊町から集団で避難して来ている大野小学校と、熊町小学校の児童6年生を対象にWSを行なった。どちらも45分の1コマ。体育の授業として受け入れてもらった。体育館には、幸い、古いピアノが残っていて、ピアニストは本領発揮モード。
ワークの内容は、3)Ricoの所見 をご参照。
おしくらまんじゅう

児童たちは、一見、元気そのもの。その表面的な明るさやエネルギーに油断してはいけない。中には、最後まで笑顔にならなかった子どももいる。そしてその元気の質にも留意すべきだ。通りすがりの自分たちにすら垣間見えるのは、担任の先生と児童の関係。それが震災前後でどう変化したのかは解らない。が、そのあたりがこの非常事態には特に重要ではないかと思える。しかし、先生だって被災者だ。どんなキズを心に、身体に刻んだか計り知れない。イチゲンのダンスアーティストが踏み込んで行ける範囲を微妙に慎重に考えながらの仕事である。

転がり合う担任の先生と生徒(微笑ましい・・・)
素敵な事件もあった。
後半の大野小学校での事。始まってすぐに、少し色白ぽっちゃり型の男子が足をくじいたのか、端っこに座り込んでしまった。このまま見学をすることになるのか、と思いきや、クラス中盤でピアノと連動するワークになると、見事に復活し、えも言われぬ喜びを身体で表現しながら、人一倍、動いている。踊っている。本当に純粋な幸福感を発している。なんと言う事だろう。一応ダンスを仕事にして生きている私等より、数百倍も踊る事が自然な男子である。
子どもたち向けにWSをしていて、たまに出会うタイプの「生まれつき踊る人」、である。そんな時、私たちは彼らの将来に、どのように協力出来るのか。既存のダンス教育に、果たして彼らを受けとめ、今有る才能を伸ばし、社会がその価値に気づく、という事ができるだろうか。少なくとも、この日のこの時間は、私たちのリードによって、彼はその才能の一端を発する事となった。また会いたい。会って、一緒に踊りたい。踊る心を彼から教わりたい。
キラリと美しい事象に出会ったのは嬉しい事。一方で、彼らの将来に貢献する力を、自分たちが持っているかどうかを問い直すガツン!な瞬間であった。

被災地をずっと取材している地元新聞記者の方から、今回の授業のコメントを貰った。避難所での生活では、見られなかった笑顔の子どもたち。きっと開放感を存分に満喫したのではないか、と。この言葉は、非常に勇気づけてくれるものである。わずか45分の中でも起こる様々な変化に目を向けて、45分後に答えを出すのではなくとも、何かを彼ら(児童にも先生にも)に伝えることができたのではないかと思う。

この会津で出会う人たちは、本当に面白い人たちが多い。風雅堂の山宮さんや教育委員会委員長の前田さんが繋いでいく人たちは、エネルギーがあって前向きで、行動力がある。なんとも美味しい郷土料理/お酒のお店での会合は、とんとん拍子に話が進み、今回のワークショップをきっかけに、今後も活動を継続するつもりで、「ふれあいづダンスクラブ」を設立した。次回は、大熊町からの避難者の多い地域で、地元の人と避難者との交流WSをやってみましょう!の企画も立ち上がりそうだ。

復興支援Tシャツコレクション(右から会津若松文化振興財団職員 山宮氏、アーティストの鹿島、Rico、勝部)


3)ピアニストRicoの所見
●会津若松へ向かうにあたっての思い
3月11日以降、日本が異次元に移行したかのようになり、日本人が戦後積み上げてきた価値観を大きく方向転換しなくてはならなくなったと、多くの人が感じたと思います。その中の1人である私も、この先の日本がより良い方向へ向かうには、個人として何が出来るのか、何も出来ないのか、と大いに悩んでいました。
音楽家である私は、人の心に届く音楽を作り、歌い、演奏する、それが仕事だろうとも思いました。
しかしそれだけでいいものなのか。そんなモヤがかった思いの中、友人である勝部ちこさん鹿島聖子さんから今回の会津若松行きの話をいただきました。
大熊町から会津若松へ避難してきている小学生へのワークショップ。
避難してきている方たちを受け入れ、しかし同じ福島県民でもある会津若松市民の方たち。その方たちと実際に会い、今何を感じ、どんな思いなのか、言葉で聞けずとも、肌で感じてこようという思いで会津若松へ向かいました。

●実際のワークショップを通して
これまでコンタクト・インプロビゼーションには、演奏家としてのみの参加しかしてこなかったのですが、今回初めて自身の身体を動かし、参加者の方たちと直接に触れ合いました。
会津若松のスタッフの方たちも参加していた初日の大人向けのワークショップで、初めて会う方たちとこんな短時間で、こんなにも思いを共有出来てしまうものなのかと、まずは軽いショックを受けました。
翌日の小学生向けのワークショップについて、テーブルを挟み相談をしていたら、きっと実際の半分も思いを共有する事は出来なかったのでは、と思います。

そして大熊町の熊町小学校と大野小学校の小学6年生たちとのワークショップ。
何が始まるのだろうと不安そうな顔の子供たちの列が体育館へ。
入ってきた先でダンサー2人は踊り、私はピアノ演奏。
先生の方を見て指示を受けるべきか、それともダンスを見ていていいものか・・・
虚をつかれたような子供たちの様子がおもしろい。
数分のパフォーマンスを見せた後、挨拶。
それでも子供たちの戸惑った顔は変わらず。
全員に裸足になってもらい、準備運動を始める。
丸太転がり。進む!
徐々に大きな動きになり、体育館中を大またで歩きまわり、横を通り過ぎる人と握手、目の合った人と同時に左右へ倒れ込む、もうその頃には子供たちのはしゃぐ声が体育館中に充満していた。
小学6年生ということもあり、男女の照れはあったものの、初めて会う大人も含め、子供たち同士、一気に垣根が取り払われたように見えた。2人組みでお互いの身体の上を転がる、身体で音を表現してみる、グループ分けし楽器を使って大きな音を出す競走、ボディパーカッションで大合奏。
45分間という短い時間でのワークショップだったので、メソッドの組み立てにもう一工夫あってもよかったか、とも思いながら、弾けるような笑顔があったことは事実だった。
身体の大きな子、小さな子、おとなしそうな子、活発な子、どの子にも差の無い笑顔を見ることが出来た。
2つの小学校の6年生2クラス別々のワークショップ。
先生が参加したクラスとそうでなかったクラス。
ここに大きな違いを感じました。
ご自身が参加した先生は、ワークショップ終了後、目を輝かせて感動を伝えてくださった。

●    私見としてのコンタクト・インプロビゼーションというものの意義
人と触れる、照れる、笑う、通じ合う、心が開放される。
これこそ現代社会に今必要なものではないかと強く感じました。
職場の中でうつ病になり退社に追い込まれる、こういうことが起こっているのを身近で数人見聞きしてきました。
良いコミュニケーションを人と持ちたいと誰もが願っているのに、上手く出来ないということが本当に多いと思います。
ひとつの集団の中で言葉を使ってコミュニケーションを円滑にしようと試みる前に、コンタクト・インプロビゼーションのワークショップを1度やってしまえば、大きく変化するのでは、と感じました。
私がコンタクト・インプロビゼーションのワークショップに演奏だけでの参加のみだったら、こういう思いにはいたらなかっただろうと思います。

会津若松教育委員長の前田さんも参加。
目線の先には転がり重なり合う男子たち。
演奏者として参加していた時は、お互いの身体に触れ合い身体を動かす人たちを見ていて、その触れている部分から何が生まれているのか、全く分からなかったのです。
自身が参加した後に感じた思いとの差が、熊町と大野町の参加した先生、参加しなかった先生の大きな違いと同じなのではと気づきました。
とにかくコンタクト・インプロビゼーションは、参加しなければ人と通じ合えたという思いや、そこから繋がる心の開放感を感じることは出来ないのだと分かりました。
どうやって参加してもらうか。これが大きな鍵であるとも感じました。

コンタクト・インプロビゼーションにはもっと大きな意義があるのだと思いますが、私が感じたこの単純な思いだけでも、たくさんの人の心を救えるのではないか、と大きな希望が見えたように思いました。
たくさんの人たちが苦しい思いをしている東北でも、きっとコンタクト・インプロビゼーションは救いになるのではと、強く感じます。
ピアノに反応していたら繋がった! 


4)原発に思う
福島原発から100km離れた会津若松は、全く普通通りの生活が送られているようだ。マスクをしている人は見かけなかったが、風評被害をまともにくらい、観光客が非常に少ない現状だ。
郡山から会津へ向かう電車の車窓からは、たくさんの田んぼに稲が青青と育っていた。これらのお米は、どうなるのだろうか、私たちも頂いた美味しい郷土料理は本当に安全なのだろうかと不安がよぎった。
しかし、今や日本も世界中のどこにも汚染されていない所はないのではないかと思える。それでも、福島第1原発の事故は、最悪を極めている。対処に当たっている方々には本当に感謝しているけれど、東電幹部や政府、経産省、保安院、安全委員会など責任がある所の対応は崩壊している。悪魔に魂を売ってしまったような、このような人たちにこそ、本当はコンタクト・インプロビゼーションをやってもらいたい。ほとんどの親が原発で働いている大熊町の子ども達や福島の沢山の人たちと、背中を合わせてどんな思いでいるか、じっと感じてもらいたい。私利私欲にまみれて硬直しきった身体と歪んだ顔がほぐれたら、日本の未来も少しは変われるのではないだろうか。
人が変わらなければ、社会は変わっていかないのだから。
と書いている本日、2011年7月13日に管首相が、脱原発社会を目指す宣言をした。
1960年代から、国民の意向など全く無視され、強行的に続けられてきた、原子力政策を方向転換させる歴史的な事ではないだろうか。管首相が本当は何を考えているのか良く分からないが、とにかく宣言した事は頑張って頂きたい。その前に、福島の原発を確実に収束させて欲しい。

(文責:勝部ちこ、鹿島聖子、Rico)
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2011年7月12日火曜日

宮城県東松島市レポート その3 早川朋子

6月15~16日、仙台と東松島へ。
コーディネーターの吉野さつきさんダンサーの山田珠実さんととともに、今回は、ワークショップをするのではなく、子育てセンターでの、お母さんと赤ちゃんのプログラムを見学し、その上で何ができるかを現地の方と話し合えればという意図で行った。


■東松島市 矢本子育て支援センター
「妊婦・赤ちゃん広場 専門家とおしゃべりタイム」を見学


仙台を出発し車で東松島市役所のエリアへ。市役所は災害対策本部、仮設住宅申込みなどで多数の人が出入りしていて、他県の名前がはいったベストを着た応援の職員もたくさん見かける。
子育て支援センターは市役所から車で少し行ったところにあり、その周りも、外にはテントが張られ「土のうの貸出こちら」など出ている。
また、おそらくボランティアの人たちが寝泊りしているであろう、小さな宿泊用テントも多数。

ここに来るほんの少し前に、津波の跡がはっきり残った場所を車で通って来た。がれきが散らばっている場所と、被害を受けず家々がならぶ住宅街と、道を一本隔てただけなのに全く光景が違う。それに愕然とする。

そんな敷地の状態のなか、子育てセンターは、一歩入ると広々と畳とカーペットが敷き詰められ、窓から広々と緑が見え、絵本やおもちゃが置いてありゆったりした空気 。
どちらが日常でなにが非日常なのか、一瞬わからなくなる。
さきほど見た、津波で流されたエリアはすぐ近くだからだ。


時間が来て徐々にお母さんと赤ちゃんが集まりだし、支援センターのスタッフの進行で手遊びや自己紹介などが始まる。
お母さんどうしはあまり顔見知りではない様子。そのつど自由に参加だからかな。
でも自然に、小さい赤ちゃんズと遊びまわれる3歳前後の親子でわかれて遊んでいる。

これだけたくさん赤ちゃんや子どもがいるというだけで楽しそう。

小児科の先生や助産師さん栄養士さんなどが来ていて、自由にそばに集まり質問をする時間。私は小児科の先生を囲んだ輪にいて、みんながどんなことを質問するかなあと聞いていた。多かった話題は予防接種のこと。ヒブワクチンと肺炎球菌の同時接種しても大丈夫か、とかポリオは生ワクチンか不活化ワクチンか、など2歳の母である私自身も気になっていたことと同じだった。

震災に関連した子どもについての相談などはそこでは聞かれなかった。
日常が戻ってきているということなのかな。
お母さんどうしも初対面の人が多かったら、お互いの状況を話さないのも当然かもしれない。私も、娘が生まれてこういう子育てセンターの催しに行ってたけど、毎回、初対面のママどうしで「いま何ヶ月ですか~?」「離乳食食べてる~?」などの おしゃべりに疲れて(!)すぐ行かなくなっちゃったから。

まだ幼稚園保育園に行かない小さい赤ちゃんのいる人は、どんな風に過ごしているのだろうと思い、そばにいたお母さんに話しかけてみる。よちよち歩きの子を連れたそのお母さんは、そもそもこの矢本のエリアに住んでいるのではないそうで、今日はわざわざ来たらしい。
「普段は、、あんまり行ける所はないんです。歩いていけるところにはなかなか。まだ公園とかで遊ぶには小さいし…」車がないと、なかなか自由に動くことも難しそうだ。
震災後、どうしていたかということも聞いてみたかったが、なんとなくそこには触れてはいけない気もしたし、東京からぽんと来て興味本位に聞いているようで躊躇してしまっ た。


■車から見た光景

その後、仙台へ戻る途中、津波の被害を大きく受けた地域を車で通る。
車で同行してくれた仙台在住のみ弥さん優太くんは、東京から人が来るたび「案内」してもう見たくない光景かもしれない。

けれどそれは想像を超える、思考がストップする光景だった。
3階くらいまで、窓ガラスも何もすべて吹き飛んだかのような建物。押しつぶされた車が大量に集められた廃車の集積場。
「あの建物の上にいた人は助かったらしいよ」と4階建くらいのショッピングセンターを教えてくれる。じゃ、そこに辿り着けなかった人は…。
震災から2ヶ月が経っているので、がれきの撤去も進み更地のようになった場所も多いが、それぞれの家の土台だけが残ってそこにかつて住宅街があり生活があったこと を思うと絶句する。そこに生活の気配はまったくない。

仙台在住ダンサー優太くんの車の、かけてくれる音楽が次々良くてそれに救われました。
気持ちいい音楽をたくさん知っていることも、ダンサーとして役に立てることかな。


■長く長く

復興と一言で言っても、直後の、食べ物着るものがない状態を過ぎた今、ここにいる人たちは、絶望の大きさや深さを心の中にしまって日常を送っているのかもしれない。今日会った赤ちゃんを連れたお母さんたちも、震災後、必死で自分の子どもを守り、心配し、笑顔を見せてがんばってきたことは確かなわけで。また、今回案内をしてくれた仙台アルクトのメンバーのひとたちもそうだ。

そんな生活の中、カラダをほぐすことで心もほぐれて少しラクになる時間は確かに必要かもしれない。ダンスをしている人はみなそう思っているし、自分自身がそれを実感しているからこそそれを伝えたいと思っている。
でも今回、この被害の状況を目の前にして、私たちが信じてきたダンスというものが、伝わらないかもという覚悟も持たなければならないと思った。
それくらい想像を絶する状況だからだ。ただ、それで止まってしまっては何もならないので、少しずつ、いつも、長く長く思っていきたい。と思っている。


それと今回は、これまで一緒にワークショップをしたりしてきた吉野さん、山田さんと一緒で、行程のあいだたくさん話ができたことが貴重だった。
子育てセンターへ行く前の晩、もし少しでも何かしてもいい言われたらという想定で、あれこれ体をほぐす内容を話しあったり(たまちゃんは相変わらず骨格フェチ)見てきたことをたくさん話をした。山田さん、吉野さんありがとうでした。また実際に、仙台で活動しているアルクトのみなさんに会えたことも貴重だった。

過酷な状況下でワークショップ的なことしたいと思うとき、一緒に行くダンサーやコーディネーターのひとと信頼しあっていて、同じ思いを持っていることは普段以上に大事だと思った。

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2011年7月11日月曜日

宮城県東松島市レポート その2 山田珠実

16日朝、8時20分に仙台・ARCT事務局の伊藤みやさん、ダンサーの千田優太がホテルまで迎えに来て下さり、千田さんの運転で東松島市にある子育て支援センター「ほっとふる」に向かいました。

目的は、主に今後のワークショップのためのリサーチのようなことでした。
「日本プライマリケア連合学会(PACT)」(http://www.primary-care.or.jp/-care.or.jp/)という医療関係の団体がダンサーの派遣によるワークショップに関心を持ってくれたので、まずPACTの派遣する先生たちとお母さんたちの相談会に同席し、子育て支援センターのスタッフや、来訪するお母さんや幼児たちの様子などを実際に見聞きして、今後の可能性について話し合えればということでした。

「ほっとふる」で感じたこと

10時前にPACTの先生たちより前に「ほっとふる」に到着。
たぶん、私たちは「ほっとふる」の施設スタッフにとって、直接「行きましょうか」「来て下さい」という話をした相手ではないので、何となくどう関係してよいのかがよく分からない対象であるのかもしれない、と感じました。それももっともだと思いました。

前日の夜、吉野さんと早川さんと、もし、「ちょっとワークショップのようなことをやって下さい」という提案を受けた場合、どんなことをしようかと2時間程度打ち合わせをしていましたが、そのような提案はどうも生じなさそうな雰囲気でした。

実際、お母さんたちが来て、「ほっとふる」の運営する会が始まってみると、「ほっとふる」のスタッフというのは、つまり、お母さんたちに子どもとのコミュニケーションスキルを伝えるワークショップファシリテータでもあることがよく分かりました。彼らが保育士の資格を持つ育児の専門家として指導や施設の運営にあたっていて、お母さんたちの抱える問題解決に自分たちが助力したいという職業意識と誇りを持って活動されているのを感じました。

彼らの立場に立ってみると、ダンサーや振付家がやって来て、自分たちとは別の角度のワークショップをお母さんたちに提供するということについて、意義を感じるというのは、なかなか簡単ではないかもしれない、と内心思います。アーティストの持つ専門性のようなものは、小児科医の先生とか栄養士の先生の持つ専門性に比べるとやはり分かりにくいのだろうなと。

さて、一時間半のプログラムは、以下の様に進みました。
スタッフのファシリテーションによる、歌と手遊びの紹介→2人一組でゲーム感覚の自己紹介→プライマリケア学会の先生たちの紹介→自由な質問の時間(歩ける子供たちも思い思いに遊ぶ)→それぞれの先生からのサマリー

全体を通して、あくまで『子供を育てること、子供の成長と健康について』のプログラムでした。勿論、子育てに関する、それぞれ個人の悩み相談のようなことは起こっていたのですが、『母親』という立場に強調を置かない形で彼女たち自身の心や身体について感じたり考えたりする時間は殆どなかったように思いました。
多分被災地に限らず、子育て支援センターは、当然、育児についてのプロにより運営されることになるので、それ以外の視点は持ち込まれにくい場であるかもしれません。

そんなことを感じつつも、お母さん達から先生たちへの質問タイムの間、自由に遊んでいる子ども達とニコニコ楽しく関わったりしているうちに、スタッフの皆さんも私達がいることに慣れてくださったようにも思います。プログラムが終わり、お母さんと赤ちゃんたちが帰宅された後のお茶の時間では、やっと気心が知れはじめた印象もあり、小児科の先生やボランティアできていたスタッフの肩甲骨周りをマッサージさせてもらったりして交流しました。

率直な印象として、「ほっとふる」のような社会福祉の場が、もし、アーティストやダンサーのワークショップを望むとしても、例えば、私自身のように『京都からワザワザ』という形ではなく、地元感覚で関係できる仙台のアーティストとの関係を望むことが当然だろうなと感じました。継続して、長期的に、一緒に支援できる相手との関係が重要なので。その意味でARCTの伊藤みやさん千田優太さんと一緒に訪問できたことはとてもよかったと思いました。


出会ったお母さんたち、子どもたちについて感じたこと

プライマリケアー連合学会の小児科の先生は「お母さんたちの様子は、他の地域と特別異なるようには見えない」と感想を言ってみえましたが、私にも、経験が少ないなりに、その様に見えました。勿論、お母さん達が曇りなく「明るく!元気!」に見えるわけではないけれど、かつてWSで出会った乳幼児の母さん達を思い出してみても、皆さん多かれ少なかれ悩みや、戸惑いを抱えていたように思います。この土地だから特別大変な状態にあるという印象ではありませんでした。

ただ、それは『だから、大丈夫』ということでは全くない。やはり、ある一日の1時間半の間に端から見えることはあまりに限られているので、それぞれのお母さんがどのような不安をどのような強さで抱えているのかは殆ど分からないのだな。と思いました。
そして、ひょっとしたら、繰り返し交流している「ほっとふる」のスタッフにとっても「分からない」ことは多く残って当然なのだろうと思いました。
相手の心の中の出来事は『分からない』という前提にまず立って、その上で、何か提供できることがあるのか模索すること、やわらかく繊細に相手を観察する視点を磨くこと、短絡に「分かった」ことにしないまま、分け合いたいと願うこと、それらが必要なのだなと改めて感じました。


仙台、ARCTの皆さんにお会いして感じたこと

仙台市街は既に、地震について知らなければ気がつかないほどに修復がなされていました。メディアテイク内の素晴らしい図書館には多くの人々が、とても静かに読書をしていて、その様子が寡黙で粘り強い東北人の印象と重なりました。同行下さった、伊藤みやさんも千田優太さんも寡黙に考えコツコツ実行する方々のように印象しました。千田みかささんが聞かせてくださった海外青年協力隊での体験や避難所ボランティアについてのお話もとても貴重でした。

やはり地元での活動基盤が既にある土地については、それをどのようにサポートし、資金や人材(実際に活動できるアーティストの人数)の不足を補うかをまず考えていくべきなんだなと肌で感じました。個人的な感情としてARCTの皆さんに、また会いたい、彼らが向き合ったいる問題を私も一緒に考えてみたいと思いつつ、例えば私のような振付家が短い期間滞在する場合、その土地で既に活動しているアーティストと実質どう有機的に結び付きうるのかな?とイメージができるような、できないような感じです。

鈴木拓さんが「地域のアーティストに対し、ワークショップファシリテーションをスキルアップできるような研修が必要だ」と言われていたのが印象に残ったのですが、その研修は被災地以外の土地で、被災地で活動しているアーティストを招く形で行っても良いのではないかと思いました。移動することで被災地のアーティストのエネルギーもリフレッシュするでしょうし、地域を隔てたアーティスト同士の経験の共有も活性化するのではないでしょうか?勿論、資金の問題はありますが。

長文失礼いたしました。

山田珠実
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