熊町小学校の6年生 |
大野小学校の校長先生と |
「ダンスアーティストによる復興支援マッチングサイト」に登録して初めての仕事は、以前から縁の有る会津若松市での活動。JCDN佐東さんと、アーティスト側は、C.I.co.の鹿島聖子と勝部ちこ、音楽家/ピアニストのRicoの3人体制で臨んだ。
概要)
日時:2011年7月3日(日)〜4日(月)
メニュー:
◉大野小学校6年生、熊町小学校6年生対象に45分のWS
◉会津若松の大人対象WS 2時間×2回、
◉会津若松にて教育委員長、文化振興財団職員、地元事業家、らとの懇談会
レポートは以下の項目で読み進んで下さい。
1) 何故、会津?
2) 何をしたか?
3) ピアニストRicoの所見
4) 原発に思う事
1)何故、会津?
ご存知のように、福島の中でも、会津若松は震災の被害をさほど受けていない内陸の街。しかし問題は、そこが「福島」に含まれているという事と、原発の町、大熊町からの集団避難を受け入れている所に有る。
東京からの新幹線が郡山に近づくと、屋根にブルーシートをかけた家々がちらほらと見え、磐越西線に乗り換えても、まだその光景が暫く続く。しかし、会津若松に入ると、以前と変わらず落ち着いた町並みがあり、文化の香りがしっかりと漂う。ただ一つ違うのは、観光客が激減している、ということ。明るい景色に不似合いな程、ひっそりしている。
私たちは、震災の直前、2月末にここを訪れている。会津若松風雅堂の山宮さんの活躍で、4年越しの願いが叶い、コンタクト・インプロビゼーションのワークショップを再開する事が出来た。そして勢いに乗って行こうね!と誓い合ったのもつかの間、3月11日に、大きな横槍が入った。横槍どころではない。
全てを狂わせる物理的な災害に、許し難い人災がかぶさり、福島の地は何重もの困難に見舞われている。
事前に電話で話した山宮さんの声は、やはり元気がない。2月に知り合った会津若松市教育委員長の前田さんが、東京での私たちのワークショップ(WS)に来て下さった時に、「避難して来ている子どもたちは、本当に苦しいんですよ。でも大人の私たちも、大変です」というお話をされ、それでもコンタクト・インプロビゼーションのWSに参加した事で、心が軽くなった、とおっしゃった。
そうだ、コンタクト・インプロビゼーションは、被災地で被災者に受け入れられるかも知れない。役に立つかも知れない!
私たちは、今、会津に、呼ばれている!
佐東さんの素早いコーディネートが後押しし、かくして、私たちの第1回の復興支援は会津若松に赴く事になった。
2)何をしたか?
到着初日の夕方は、会津若松市の大人向けのWS。こぢんまりと、しかしサミットWSとも言える要人たちに向けてのWSとなり、今後、私たちの活動が復興支援の可能性を持つかどうかが試される機会ともなった。丁寧にウォームアップをした後は、音楽家Ricoの参入で、普段のコンタクト・インプロビゼーションのWSとは少々趣を変え、身体で音を奏でること、楽器を鳴らす事、動きを音で表す事、などの内容に突入する。実際に初めてコンタクト・インプロビゼーション(的な)WSを体験する人達も含め、徐々に身体と意識の繋がりが滑らかになってきて、夢中になっていく感じ。大変な日常で疲弊している心と頭を、一旦、身体に支配されてみるのは、結構効果の有る事だと思う。
ボディパーカッションに挑戦 |
ワークの内容は、3)Ricoの所見 をご参照。
おしくらまんじゅう |
児童たちは、一見、元気そのもの。その表面的な明るさやエネルギーに油断してはいけない。中には、最後まで笑顔にならなかった子どももいる。そしてその元気の質にも留意すべきだ。通りすがりの自分たちにすら垣間見えるのは、担任の先生と児童の関係。それが震災前後でどう変化したのかは解らない。が、そのあたりがこの非常事態には特に重要ではないかと思える。しかし、先生だって被災者だ。どんなキズを心に、身体に刻んだか計り知れない。イチゲンのダンスアーティストが踏み込んで行ける範囲を微妙に慎重に考えながらの仕事である。
転がり合う担任の先生と生徒(微笑ましい・・・) |
後半の大野小学校での事。始まってすぐに、少し色白ぽっちゃり型の男子が足をくじいたのか、端っこに座り込んでしまった。このまま見学をすることになるのか、と思いきや、クラス中盤でピアノと連動するワークになると、見事に復活し、えも言われぬ喜びを身体で表現しながら、人一倍、動いている。踊っている。本当に純粋な幸福感を発している。なんと言う事だろう。一応ダンスを仕事にして生きている私等より、数百倍も踊る事が自然な男子である。
子どもたち向けにWSをしていて、たまに出会うタイプの「生まれつき踊る人」、である。そんな時、私たちは彼らの将来に、どのように協力出来るのか。既存のダンス教育に、果たして彼らを受けとめ、今有る才能を伸ばし、社会がその価値に気づく、という事ができるだろうか。少なくとも、この日のこの時間は、私たちのリードによって、彼はその才能の一端を発する事となった。また会いたい。会って、一緒に踊りたい。踊る心を彼から教わりたい。
キラリと美しい事象に出会ったのは嬉しい事。一方で、彼らの将来に貢献する力を、自分たちが持っているかどうかを問い直すガツン!な瞬間であった。
被災地をずっと取材している地元新聞記者の方から、今回の授業のコメントを貰った。避難所での生活では、見られなかった笑顔の子どもたち。きっと開放感を存分に満喫したのではないか、と。この言葉は、非常に勇気づけてくれるものである。わずか45分の中でも起こる様々な変化に目を向けて、45分後に答えを出すのではなくとも、何かを彼ら(児童にも先生にも)に伝えることができたのではないかと思う。
この会津で出会う人たちは、本当に面白い人たちが多い。風雅堂の山宮さんや教育委員会委員長の前田さんが繋いでいく人たちは、エネルギーがあって前向きで、行動力がある。なんとも美味しい郷土料理/お酒のお店での会合は、とんとん拍子に話が進み、今回のワークショップをきっかけに、今後も活動を継続するつもりで、「ふれあいづダンスクラブ」を設立した。次回は、大熊町からの避難者の多い地域で、地元の人と避難者との交流WSをやってみましょう!の企画も立ち上がりそうだ。
復興支援Tシャツコレクション(右から会津若松文化振興財団職員 山宮氏、アーティストの鹿島、Rico、勝部) |
3)ピアニストRicoの所見
●会津若松へ向かうにあたっての思い
3月11日以降、日本が異次元に移行したかのようになり、日本人が戦後積み上げてきた価値観を大きく方向転換しなくてはならなくなったと、多くの人が感じたと思います。その中の1人である私も、この先の日本がより良い方向へ向かうには、個人として何が出来るのか、何も出来ないのか、と大いに悩んでいました。
音楽家である私は、人の心に届く音楽を作り、歌い、演奏する、それが仕事だろうとも思いました。
しかしそれだけでいいものなのか。そんなモヤがかった思いの中、友人である勝部ちこさん鹿島聖子さんから今回の会津若松行きの話をいただきました。
大熊町から会津若松へ避難してきている小学生へのワークショップ。
避難してきている方たちを受け入れ、しかし同じ福島県民でもある会津若松市民の方たち。その方たちと実際に会い、今何を感じ、どんな思いなのか、言葉で聞けずとも、肌で感じてこようという思いで会津若松へ向かいました。
●実際のワークショップを通して
これまでコンタクト・インプロビゼーションには、演奏家としてのみの参加しかしてこなかったのですが、今回初めて自身の身体を動かし、参加者の方たちと直接に触れ合いました。
会津若松のスタッフの方たちも参加していた初日の大人向けのワークショップで、初めて会う方たちとこんな短時間で、こんなにも思いを共有出来てしまうものなのかと、まずは軽いショックを受けました。
翌日の小学生向けのワークショップについて、テーブルを挟み相談をしていたら、きっと実際の半分も思いを共有する事は出来なかったのでは、と思います。
そして大熊町の熊町小学校と大野小学校の小学6年生たちとのワークショップ。
何が始まるのだろうと不安そうな顔の子供たちの列が体育館へ。
入ってきた先でダンサー2人は踊り、私はピアノ演奏。
先生の方を見て指示を受けるべきか、それともダンスを見ていていいものか・・・
虚をつかれたような子供たちの様子がおもしろい。
数分のパフォーマンスを見せた後、挨拶。
それでも子供たちの戸惑った顔は変わらず。
全員に裸足になってもらい、準備運動を始める。
丸太転がり。進む! |
小学6年生ということもあり、男女の照れはあったものの、初めて会う大人も含め、子供たち同士、一気に垣根が取り払われたように見えた。2人組みでお互いの身体の上を転がる、身体で音を表現してみる、グループ分けし楽器を使って大きな音を出す競走、ボディパーカッションで大合奏。
45分間という短い時間でのワークショップだったので、メソッドの組み立てにもう一工夫あってもよかったか、とも思いながら、弾けるような笑顔があったことは事実だった。
身体の大きな子、小さな子、おとなしそうな子、活発な子、どの子にも差の無い笑顔を見ることが出来た。
2つの小学校の6年生2クラス別々のワークショップ。
先生が参加したクラスとそうでなかったクラス。
ここに大きな違いを感じました。
ご自身が参加した先生は、ワークショップ終了後、目を輝かせて感動を伝えてくださった。
● 私見としてのコンタクト・インプロビゼーションというものの意義
人と触れる、照れる、笑う、通じ合う、心が開放される。
これこそ現代社会に今必要なものではないかと強く感じました。
職場の中でうつ病になり退社に追い込まれる、こういうことが起こっているのを身近で数人見聞きしてきました。
良いコミュニケーションを人と持ちたいと誰もが願っているのに、上手く出来ないということが本当に多いと思います。
ひとつの集団の中で言葉を使ってコミュニケーションを円滑にしようと試みる前に、コンタクト・インプロビゼーションのワークショップを1度やってしまえば、大きく変化するのでは、と感じました。
私がコンタクト・インプロビゼーションのワークショップに演奏だけでの参加のみだったら、こういう思いにはいたらなかっただろうと思います。
会津若松教育委員長の前田さんも参加。 目線の先には転がり重なり合う男子たち。 |
自身が参加した後に感じた思いとの差が、熊町と大野町の参加した先生、参加しなかった先生の大きな違いと同じなのではと気づきました。
とにかくコンタクト・インプロビゼーションは、参加しなければ人と通じ合えたという思いや、そこから繋がる心の開放感を感じることは出来ないのだと分かりました。
どうやって参加してもらうか。これが大きな鍵であるとも感じました。
コンタクト・インプロビゼーションにはもっと大きな意義があるのだと思いますが、私が感じたこの単純な思いだけでも、たくさんの人の心を救えるのではないか、と大きな希望が見えたように思いました。
たくさんの人たちが苦しい思いをしている東北でも、きっとコンタクト・インプロビゼーションは救いになるのではと、強く感じます。
ピアノに反応していたら繋がった! |
4)原発に思う
福島原発から100km離れた会津若松は、全く普通通りの生活が送られているようだ。マスクをしている人は見かけなかったが、風評被害をまともにくらい、観光客が非常に少ない現状だ。
郡山から会津へ向かう電車の車窓からは、たくさんの田んぼに稲が青青と育っていた。これらのお米は、どうなるのだろうか、私たちも頂いた美味しい郷土料理は本当に安全なのだろうかと不安がよぎった。
しかし、今や日本も世界中のどこにも汚染されていない所はないのではないかと思える。それでも、福島第1原発の事故は、最悪を極めている。対処に当たっている方々には本当に感謝しているけれど、東電幹部や政府、経産省、保安院、安全委員会など責任がある所の対応は崩壊している。悪魔に魂を売ってしまったような、このような人たちにこそ、本当はコンタクト・インプロビゼーションをやってもらいたい。ほとんどの親が原発で働いている大熊町の子ども達や福島の沢山の人たちと、背中を合わせてどんな思いでいるか、じっと感じてもらいたい。私利私欲にまみれて硬直しきった身体と歪んだ顔がほぐれたら、日本の未来も少しは変われるのではないだろうか。
人が変わらなければ、社会は変わっていかないのだから。
と書いている本日、2011年7月13日に管首相が、脱原発社会を目指す宣言をした。
1960年代から、国民の意向など全く無視され、強行的に続けられてきた、原子力政策を方向転換させる歴史的な事ではないだろうか。管首相が本当は何を考えているのか良く分からないが、とにかく宣言した事は頑張って頂きたい。その前に、福島の原発を確実に収束させて欲しい。
(文責:勝部ちこ、鹿島聖子、Rico)
supported by