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2011年6月30日木曜日

野田村に関して。--佐藤美紀

被災地の復興は東京に近く、新幹線も止まる仙台から入るから、北の外れである野田村は復興に時間がかかると思い、ボランティアに来始めた人たちも多いらしい。
でも、実際には、進んでいる!
これには、やはり訳がある。

被災状況の大変さに比べると、亡くなっている方が少なく、行方不明者も早い段階でゼロになっている。
津波が来る前、村の人達が、声を掛けあって避難をしていたらしい。
湾の向きも多少助けになっている。
漁師達は海のことを知っている。

それに、海の人は前向きなんですって。
盛岡の山の人が言っていた。

地元のキーパーソンが明確なのも良いと思う。
行政だけだは間に合わないのだから、近隣の久慈を含めたNPO団体や地元の名士たちが、上手く作用しているように見受けられた。

しかし、プレハブの仮設住宅は住みにくそうである。
お隣りの声が聞こえてしまう→ひっそりと生活をする→会話をしなくなる
引き篭もりをつくっては、ならないよー。高齢の一人暮らしもあるだろうし。。。
これでは良くない。『ごめんね、今日は誕生日でパーティやっているからウルサイけど許して。良かったら参加しませんか?』
みたいな関係をご近所と作れないと!ですよね。

カラダホグシの場で、お年寄りと母と子供たちが一緒に動いていた。
いつも会わない人と会うのは楽しそうである。
気分転換。
一度でなく、数回繰り返すことにより、より一層お友だちになれるのではないかな。

そんな地元密着のワークショップが、毎月回っていったら、アチコチで行われていたら、ホンのすこしでも、生活を変えることが出来るかな?
今回、えぼし荘の皆様には、顔と名前を覚えていただけたので、継続して行くことが、大事だなぁ~と思う。

そして、東京での活動に生かすことだよな。
アーティストが行く意味。
硬い報告書ではなく(笑)やわらかすぎるブログだけどnice!な写真達と今後の展開。

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2回目の野田村行き 2--佐藤美紀



6時半、えぼし荘にギリギリ到着!
7時からえぼし荘体操2回目。
昨日より沢山の人達が参加~。

昨日やって良かったよ、と、言ってくれて再び参加してくださっている方々は、お風呂セット持参。
隣が大浴場なので、ストレッチして汗かいてから温泉♪というコースを設定。
完璧です。(笑)


社会教育事業団(?)の松川さんという女性からのメッセージが受付に。
今後、毎週金曜日午後、避難所内集会所でのびのび体操とセラバンド筋トレ、栄養相談、健康相談などをこれから行うとのこと。
ぜひ、そこでも、ダンサーによる体操をっ!と話しを進めていて、今回、何処かで会えないでしょうか?と思っていたところ。
松川さんもえぼし荘まで、来てくれていたらしいのですが、残念ながら、すれ違いに。
でも、受講者の声を聞き、ぜひ、今後、避難所内集会所でもやってくださいとの話になりました!

床+立の運動を40分とちょっと。
で、最後に、足首でマル~、膝でマル~、腰でマル~、肘でマル~、手首でマル~、頭でマル~って、やっていたら、まったけさんが盆踊りみたいだなっって言うので、じゃ、盆踊りしましょうかっ!ナニャドラヤ教えて下さいっ!って振ってみたら、皆様、踊る踊る。



男性が一人、手ぬぐい頭にまいて、なんとか踊りを披露するも、女性陣が一気に円になって踊り始めるっ。
流し踊りじゃん~って、男性はちょっとツマラナソウ。
女性は太鼓が必要!っといいつつ、お盆のウラをたたきながら、でも、踊る踊る。
20代の女性は知らないらしい。
40代以上の方々は皆様御存知だった。
今年は夏祭りもきっとできなからね・・・・と、さみしそう。

太鼓もお祭り道具も流されちゃったんだよね。


終了後、夕ごはんを頂き、まったけさんにチュウハイをご馳走になる。
ロビーで歓談。
ここで女性と飲むのはじめてだよぉ~っと、ちょっと嬉しそう。(笑)
震災時の写真などを拝見。

今欲しい物は草刈機。
これから余計に必要なもの。

漁師の朝は早く、船はなくても、漁師の生活。
朝から草むしりしたり、家を見に行ったり、海を掃除したり、結構忙しい。

まったけさんの日本語はあまり訛りもなく、聞き取りやすいな、と、思っていたら、高円寺に住んでいたこともあるらしい。
大工だったんだって!
野田村に婿に来たんだって!
そっか!
で、納得。
この村に生まれ育ったとは思えなかったんだ。
このセルフ・プロデュース能力。
ブログの書き方。


お風呂は2種類あって、男性/女性が日替わりになっている。
温泉浸かっておやすみなさい~


6/11
3日目は、北リアスの現地事務所開設準備室OPEN式典に参加。
野田村内で迷子にならないように、八戸高専の河村先生、京都大学の永田先生と野田駅で待ち合わせ。
二人に会う前に、写真を撮りに線路を歩いていると(電車は動いていないと思っていた)ホームにいたおじいさんが、そろそろ電車くるよーっと、教えてくれる。
えっ!電車うごいているの?
だって野田の海岸沿いは、流されちゃって線路ないんだヨォー
流された方向とは逆側、久慈という隣街と野田村間、1駅ぶんだけ、1日にホンの数本動いているらしい。
利用客は2人とか、だけど。。。。
悪循環のサンプルだな。
本数が少なすぎて、使いにくい。使わない。赤字路線。余計本数が減る。余計に使わない。
でも、久慈の街は村よりかなり大きいので、必要な人もいるだろうに、ね。
可愛い電車をパチリ。

八戸高専の河村先生、京都大学の永田先生と、他にも函館高専の先生たちと合流。
駅でお弁当などを購入。
ついでに、雑穀類も購入。
またやってしまった、食材の買出しw


北リアスとは・・・は、前に書いたよね。
野田村名士と思われる、貫牛利一さん宅敷地内にプレハブの小屋を。
ここは、村の中でも大きい仮設住宅が集まっている中学校裏へ徒歩5分、という立地。

式典。取材もきている様子。
翌日の地方新聞にでる。
http://www.iwate-np.co.jp/hisaichi/h201106/h1106125.html
http://cgi.daily-tohoku.co.jp/cgi-bin/news/2011/06/11/new1106112101.htm

午後は、中学校仮設横で、お好み焼き&たこ焼きを振舞い、フリーマケット開催。
お好み焼き&たこ焼きには、すごい行列が出来てるっ!
準備も万端とは言えずで遅いっっていうのは、あるけど。でも、みんな、並ぶのに慣れてしまっているのだろうな。
折角たくさんの人が集まっているから、立って並びながらできるストレッチでも?ともおもうが、午後の日差しがとても強く、直射日光を浴びているところでは、ちょっと、あまり、よろしくない。
先週の6度とはうって変わって、20度超え。

本日の野外はパス。

そう、なぜちょっとでもストレッチとかって思ったかというと、どうも、えぼし荘体操が噂になっているらしい(笑)
この昼間に行われる村役場エリアイベントや何かと情報が混ざり、昼間どっかでやるんでしょー、行くよ~って、言ってくれた人が・・・ 何のことだ???と、私たち。(笑)

小さな村ですから、クチコミは早いっす。

フリーマケットでは、お野菜や乾物、食品、衣類、ストーブ、寝袋、ナドナド。
膝掛けなどの布物も人気。

しかし、皆さん、よく並びます。
1時間平気で並ぶ。
そういう環境になってしまっているのだろうな。

すこし話した男性のことば。
もうワシは作業ズボンが2本もあれば、大丈夫だけど、仮設に沢山の物を積み上げている人もいる。
そんなに使わないだろうに、と、いう人も。
でも、本当に、何にもなくなっちゃってね。

一人暮らしのお年寄り達が、引き篭もらないように、少しでも、出てきて、話す環境をつくっていかないと。
今の仮設住宅は、対話をしにくい構造のようにしか見えない。
ご近所ネットワークが大事なのに。

ものは集まっていると言われているけど、大根1本に並ぶ主婦たち。
生活は甘くない。

仕事はなくなってしまった人が大半の中、光熱費も食費もかかるのだから、大変だろうに。

そして、仮設の周りでは、犬が繋がれている。
家の中では飼えず、で、近くに繋いでいるのね。


生活を垣間見て、片付けの目処がたったところで、失礼する。
皆様はこのあと、久慈で打上げというか、宴席を設けているらしいが、私達にはえぼし荘が待っているっ!
それに、その前に、苫屋さんに行かなくてはっ!


で、苫屋さんに向かう。
今日はやっていて良かったー。
素晴らしい店内。
美味しい自家焙煎のコーヒーとお手製ケーキを頂く。
お話をすると、奥様の久美子さんは、本日の中学校裏仮設でハンドマッサージをしていらしたらしい。
気がつかなかったわ!

仮設での生活をどう支えていくか、村でのネットワークづくりを考えている一人で、仮設内にある唯一の集会所で月曜日午後にアクセサリー作りやハーブティーづくりを計画中とのこと。
久美子さんとやりとりを頻繁にして情報交換したいところだけど、なにしろInternetどころか電話もない。。。
お手紙です。
野田村復興祭りのこと、その発起人の人たちの話を聞く。
東京在住らしいので、帰京後、話をしてみることに。
(その人は、苫屋さんに宿泊とのことでしたが、会えなかった。)

話が盛り上がりすぎ。
慌ててえぼし荘に戻る。

ストレッチ3日目。

みなさま、お疲れ様です。
急に3日も連続で、カラダ、大丈夫ですか?(笑)
あまり急に連続するのも、どうかしら? と、思いつつ。。。
3日目は少し軽めに。
昨日が大変だったかな。

終わってからも、話込んでしまいました。
早く夕食を食べてくださいーーって、スタッフからの視線を感じ、話を切り上げ、夕食へ。
ロビーでまったけさんにビールをご馳走になる。

私のmacいいなぁ~って。
それ、置いていっても良いよって。(苦笑)
パソコンも欲しいんだよね。みんな。
流されちゃったんだもんね。

これはあげられないけど、探してみるよ、と、約束。

写真展用のスチレンボードも送るよ、と、約束。

翌朝、最後の挨拶して、帰るからね、と、約束。


6/12
お寝坊さんの私たちが朝御飯を食べていると、一仕事を終えたまったけさんが、帰る前に、船を見せてくれると。
1艘だけ残った船。

そういえば、3人で撮った写真がなかったね、とパチリ。

孵化場やその周りを見学し、バイバイ。

また来るからね。


野田村内、役場近く、写真室を見る。
ココでばったり、永田さんと、南風堂の人に会う。ボランティア作業中だった。
この記事は、初回野田村に来る前に読んでいた。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110525/dst11052507500004-n1.htm
ココに書かれている浅田政志さんの友人が、南風堂の彼女とのこと。
海水に浸かってしまった写真は、すぐに処置しないとどんどん劣化してしまう。
カビも生えてしまうし。
写真再生のボランティア。

作業ズボン姿のおばあさまが拾ったばかりの写真を届けに来てくれる。
その場で洗う。

永田さん達に、また夜にね、と、言って別れる。

先に八戸に戻るよ。


八戸の大物に会い、弁スタ見学。

駅でお茶して、一緒に旅をしていた神前さんとおわかれ。

今夜は八戸の温泉付きのスーパーホテル、温泉は狭いけど(男性用のほうが広いらしい)快適。
枕が選べるのがスーパー。

はっちに寄って、ちょっとお話。見学。
codomo hacchi!
ホント、ココ好き。


一足早く、南風堂に向かおうとハッチを出たところで河村先生に遭遇。
南風堂で飲みながら話す。
後から、渡邉さん、大澤さん、弁さん合流。
そのまた後から、かぐや姫ならぬ、がくや姫のライブに行かれていた面々が合流。
八戸には、この、なんちゃってバンドが多数あるらしい・・・

後から合流メンバーは数が多すぎて覚えていませんっ!
渥美先生、矢守さん、永田さん、、、、、



6/12
先日と同じ、朝10時の新幹線に飛び乗り、再び、盛岡。
80歳のストレッチ(笑)
帰京。

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2回目の野田村行き 1--佐藤美紀

6/9
ロックの日。仕事が片付かなく徹夜のまま、二回目の野田村行き。

東京駅でJCDN神前さんと待ち合わせ、八戸へ。
八戸駅でレンタカーを借りて、直接野田村へ。

夕方6時過ぎにえぼし荘に到着。
ココは避難所ともなっているトコロ。
多いときは100人超える人達が生活していたらしいけど、現在は20人位に。
まったけさんと再会。

よる、大広間にてストレッチ体操開催!

10人位の方々に参加していただく。
40分ほどカラダホグシ体操を。畳の広間は気持ちがいい。目前には海。
気持ちがいい~とナカナカ好評の模様。
みなさんいい顔している。

ここは、避難所とはいえ、国民宿舎なので、一家族で一部屋を使っているので、体育館にお住まいの方々よりも居心地は良さそうです。
温泉もあるし♪

体操の後に、少しお喋りし、夕食を頂く。
私たちもココに宿泊。

ロビーでまったけさんと話していると、子供二人を連れた若い夫婦が登場。
流れで、ロビーでもストレッチ大会開始!
受付の女性(先日会っている南川さん)も、カウンター越しに参加。
お風呂に入りに来ていた、中学校近くの避難所にいる方も、村にフツウにお住まいの方も一緒に参加。

一緒にいるから出来ること、って、沢山あるな、と思う。
夕食後、お風呂の前の7時という時間は、なかなかよいタイミング。
みなさま、普段、何もやることないのだそうで。

よしっ!明日はもっと人呼ぶぞ、と、まったけさん。
ありがとうー



6/10
翌日は朝から宮古へ。
野田村から車で1時間半ぐらいかな。
途中、ものすごい光景を目にする。変な言い方だけど、ウェブで見る写真と同じ。
それが一箇所ではなく、続いている。
本当に続いている。。。 こんな状態が500kmとか800kmとか続いているかとおもうと、被害の大きさが尋常ではないことを痛感する。
前述だけど、本当に被災地が広範囲・・・そんな簡単な一言ですませられない、、、、

宮古の駅前喫茶店で魁文舎の花光さん、松本さん、京都から来ていたセレノグラフィカのお二方、今回記録として同行されていたタキシマさんと合流。
なんというレトロな喫茶店。
おじい様経営の素敵な喫茶店。


この日の避難所は難関、ということで、花光さんからHELP!を頂き、合流することに。
行ってみると、そこは大きなアリーナ。
いくつもの体育館がある。
つまり、それだけたくさんの人々が生活をしている。

皆さんの住んでいる体育館内でストレッチを開催できそうだったら、同時に何箇所かで行うこととなるので、その為に講師が何人かいるとベターという判断でのHELP要請らしい。

でも、実際には、食堂の横に集まってもらうことに。

各部屋を周り、声をかけ、食堂横に来ていただく。
でも、もう、体育館に残っている人は、とても少ない。ここでも昼間は外出されている方がほとんど。
いても、うごきたくないから、でかけたくないから、残っている・・・そんな人達が殆だった。


そんななか、スタッフ含め10数人が体育館に集まる。
セレノのすみじさんの指導のもと、皆さん、円になって、ストレッチ・マットに座る。マット、用意してくれていたんだね。
45分位、体操を。私たちはアシストに入る。
自然の流れで。

いい内容。関西ならではのボケ、ツッコミもあり、皆さん楽しそう。
うん。人のクラス見ると、ほんと勉強になるわ。
よい機会をありがとう。

最後に私が話しをして参加してくれた男性のスタッフから、相談をされる。
彼は青森から派遣されているスタッフ。
かなり個人的なことだけれども、お嬢様に障害があり、車椅子での生活とのこと。
その施設のようなところで、年に1回、文化祭のようなイベントを開催してるとのこと。
その時に、ダンスのようなことをみんなでできないかな?と、思ったらしい。
こうやって、少しづつでも、ダンスが社会とコミットしていくのはとても大事なこと。
宮古での、いい出会いをありがとう。

終わった後、向かいのショッピングモール内、ケンタッキーでお茶をする。

津波が来たのか来なかったのか、そのホンの少しの差が、生活を大きく分けている。
仕事があるのか、ないのか、その差は歴然と今後に関わってくる。
このショッピングモールには、物がフツウに溢れ、皆さんフツウに買い物に来ている。
あたりまえだけど、日常に戻っている人は、完全に戻っている。
でも、その一方で、仕事もなく体育館で生活をしている人たちもいる。

体育館から出勤する人もあれば、家は無事で生活できるけど、仕事がなくなった人もいる。

震災復興フェアと題された一角には、お仏壇が並んでいた。
それが現実だよな。

この企画、ダンスアーティストが現地に入る場合、先が、よめない。
先日の私が野田村で行ったイベントもそうだけど、その場で判断し、内容をアレンジしていく。
経験値がないと厳しい。自分もそんなにエライことはできないけど、年とっている分だけ、状況を見ることは出来る。
いわゆるワークショップのように、参加したくて参加しているというより、何だか知らないけど、付き合うか・・・って、いうモチベーションの人たちをどう乗せていくか。けっして簡単ではない。そして参加した人たちが笑顔で帰ることが出来るような内容を。
私にとっては、母の付き合いで行く老人福祉施設より、平均年齢がかなり若いので(笑)楽しいいけど。

そんなこんなで、お昼食べたりして、皆様と別れ、私たちは野田村へ向かう前に、しばし宮古近辺の観光を。

港に行き、崩壊している家々、建物を通過し、浄土ヶ浜まで。
途中通過のホテルも避難所になっていると思われる。(洗濯物が干してあった)

観光センターの先、車両通行禁止のトコロにも通してもらう。
女性二人、京都からです~、東京からです~ は、強い。(笑)

管理のひとにも、どうなっているかわからないから、気をつけるんだよ、と、言われ、奥浄土ヶ浜まで。
絶景ポイント。小沼、大沼、浄土ヶ島、、、、
でも、その対岸は鉄の柵は曲がって海に落ち、アスファルトは捲れ、剥がされ、、、、

ここのレストハウスは昨年10月に改装し、この夏の集客を楽しみにしていたらしい・・・
屋根が飛んで、捲れてる。。。

若いおじいちゃんと男の子に会う。
写真とっているおじいちゃんの様子。

ゆるゆると野田村に戻る。

途中、小さな集落を通過する。
そこもひどい被害をうけている。
きっと復興はおくれているだろうし、物資もなかなか来ないのでは?と思う。
きっと震災後1ヶ月は道路も思うように通れず、本当に辛い生活を余儀なくされていたのでは?と想像する。

こういう小さな村々が一体いくつあるのだろう?
海岸沿いには、小さな集落が点在しているのに違いない。
TVが取り上げるのは、有名人の○○○さんが、被災地へ○○○を届けにいきました~とか、そんなのばっかりだよね。
大きな避難所のことばかり。
小さな村のこと、見れていない気がどうしてもする。
それより、宮古だって、釜石だって、ホテルもあるし、観光誘致ぐらいすべきでは?

各会社でやっている慰安旅行。それを全て東北にし、宴会やって、地元にお金落としていこうよ。
その宣伝をTVではやって欲しいな。
美味しいお魚もお酒もあるよ!


で、途中、観光(笑)

熊の鼻なる展望台へ登る。
綺麗。

前回の台風6度とはうって変わって、気持ちのいい夕日。


前回の台風かつ気温6度とはうって変わって、気持ちのいい夕日。


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2011年6月29日水曜日

野田村(6月9日~11日)報告…JCDN



5月末の野田村にアーティストとして派遣されたダンサーの佐藤美紀さんのコーディネートで、そのときのつながりをきっかけに再び野田村へ赴く事が決まり、私はアシスタント兼運転手として参加、初めての被災地訪問でした。


日程は6月9日~11日の3日間。場所は国民宿舎 えぼし荘の畳敷きの大広間。夜の時間帯に30分~40分ほどのストレッチの時間を設けた。参加者は子供~高齢の方まで、1日15人程度。
他に、10日朝~昼にかけて、魁文舎花光さんのチームが行う宮古市でのワークの応援。午後は宮古市内から野田村までの国道45号線を北上しながら、周辺の被災地などを見て周った。11日は、午後、「チーム北リアス」の現地事務所開設準備室の開所式に参加、その後、事務所から徒歩5分の場所にある野田村の一番大きな仮設住宅で行われた現地拠点開設記念イベント(お好み焼き&たこやきと物資青空市)に参加。夕方ごろ、野田村のアート関係者が必ず立ち寄るというカフェ&民宿「苫屋」に我々も立ち寄り、そこで活動家の女将さんと出会う。12日、午前中に野田村中心部の被災場所を視察、最後に写真保管所に寄って、野田村を後にした。 (詳しくはこの後の美紀さんブログにて。)





今回、我々が活動の拠点とさせていただいたえぼし荘は、野田村の中心部から車で20分ほどはなれた海岸沿いの小高い丘に建つていて、すぐそばの下安家川(しもあっかがわ)地区に住むの方々の避難所でもある。前回、佐藤美紀さんとJCDN佐東がここを訪れた際、まったけさんという地元の漁師さんに出会ったことがきっかけで、この場所で連続ワークを行いつつ、周辺に活動を広げる機会を得ることができた。





まったけさんは自分の船が津波に流されてしまい、今は漁をしたくてもできない。ご本人曰く、「羽のない鳥のよう」な状態で、日々避難生活を送っている。えぼし荘は野田村中心部と離れているために、十分な物資が届かず、まったけさんが自分のブログで東京の知人に必要なものをSOSしたところ、その方のネットワークで様々な物資が宿舎に届くようになり、それで難をしのいだという。






我々が到着すると、えぼし荘のスタッフさんが人集めのための掲示物を用意してくださっていた。そこに赤ペンで「ちょ~・きもっがええ~」と書かれている。これが、まったけさんの筆(写真)。1日目のワークを終えて腰痛が治ったとかで、そのハッピーな心が反映されているようだ。私にも、この掲示物をもっと目立つようにしてちょーだい、と頼まれて、追加で書いてみた。







少し話がそれるが、こういうとき「なんて書くか」ってけっこう難しい。この気分を損なわないようにしたい。でも、体操とかストレッチ、というのはちょっと違う気もする。うーん・・・で結局、まったけさんやえぼし荘のスタッフさんから「初めての人でも分かりやすい言葉がいいよ」と助言を受け、それならどういう状態になれるかを言葉にしてみようとして、「のばして ひねって すっきり リラックス」に落ち着いた。実際、これを総称すると「ストレッチ」とか「体操」になるなんだろう。ちなみに、現地の人に度々質問してみたところ、大方の人にとって、「体操」という言葉・響きが最もイメージしやすいということが判ってきた。「ダンス」と言って通じ合える?までには、まだまだ遠い・・・!?





このように、まったけさんは我々を温かく迎えてくださり、人集めまで進んでしてくださった。おかげで、えぼし荘に避難されていた住人の方々には、比較的すっとなじんでもらえたのではないだろうかと思う。全員がご近所さんということもあってか、時々、ポーズや動きをしながら、お互いを見合って笑いが漏れたり、少人数ではあったものの賑やかな場になっていたのは嬉しかった。このような方が支援先の中心にいて、偶然にも出会えたことはとても大きいことだと思う。

まったけさんとの出会いを通じて、重要だと思ったことが2つある。一つは、被災された方の話をとことん聞くということ。(ただし、知らない人にいきなりできる話ではないだろうから、そこに至るまでのコミュニケーションが必要不可欠だろう。)
まったけさんは我々に、津波が橋の上までせまってきた時の事、船が流されていった時の事、その時刻を、何度かお話された。そして、そのときに撮影したたくさんの写真を、何度か見せてくれた。始めのうちは、(ここに来る前にも佐東から事前資料として渡されていたので余計に)、一通り見た、という頭が私のどこかにあって、どうして繰り返しお話されるのかな、と不思議に思っていた。けれども、最後、お別れの日にその船が流された場所、船着場に案内してもらった時に、これまで聞いた話が急に現実味を帯びて私の体に乗り移ってきたような気がして、ようやくまったけさんのSOSにわずかながら気づいたように思った。傍にいて心の声を聞くということ。それは、この活動を通じて、きっとやるべきことの一つなのだろうと思う。(ちなみに、帰京後、宮古でご一緒したセレノさんとの報告会の折、セレノさんは上記のことを「体でも対話できる」とおっしゃっていたのが印象に残る。)



もう一つは、継続的な活動をしていくことの大切さだ。現地にいて様々な話を聞くことができたのは、短くても3日間同じ時間にそこに我々がいたことによると思う。また、体ほぐしの場も、続けて行っていると、良いものは瞬く間に村中の噂になるらしく(特に、えぼし荘には温泉があり、外からも人がたくさん訪れて風呂ニケーション!?があることもプラスして)、明日はどこか村の中心部で体操やるんだって?と密かに楽しみにされていたり・・・、実際には村中心部での体操は計画にはなかったので、我々にも「?」の噂ではあったのだけども、なんだか嬉しかった。さらに欲を言えば、そうやって現地とのコミュニケーションを作っていく中で、いずれは「ダンス」でも通じるようになるかもしれない。・・・そのためには、一つの場所で行ったこと、一人の人と出会った事をきっかけに、より継続的な場を開いていけるかどうかが今後のポイントになるだろう。  (報告:神前沙織/NPO法人JCDN)


2011年6月24日金曜日

宮古報告(セレノグラフィカ 隅地茉歩)

<前書き>                           
 6月8日から二泊三日で、岩手県の宮古を訪れました。訪問先は5カ所でした。長いご報告になりますが、体験したことを出来る限り具体的にお伝えしようと思い、細かなことにも筆を伸ばしました。先日、今回の宮古訪問のコーディネーターでもある魁文舎の花光さんが写真付き報告文を発表されていますので、そちらとも併せてご覧下さればより解りやすいかと存じます。また、今回はあえて重複をいとわず、阿比留と私とでめいめい文章に残そうということになりました。総分量が多くなりますことをご容赦下さい。



<報告>
 現地に到着するまでは、メディアによる情報の中で知る避難所というものが、実際にはどのような場所なのだろうという緊張感を抱き続けていた。
 花巻空港からバスで小一時間で、まずは盛岡駅に到着。数年前ダンスとは関係なく旅行で来た時とさほど変わりはない。「ここはまだ内陸部だから」と自分に言い聞かせて宮古行きのバスに乗り込む。駅で集合した今回のクルーは5人(魁文舎の花光潤子さん、同じく松本千鶴さん、映像記録のたきしまひろよしさん、阿比留、隅地)。これから2時間半かけて東へ。海岸部に近づくと、車窓から、建設中の仮設住宅を見ることができた。
 現地に到着しても、震災後間もない頃に視察された方などからうかがっていた惨状をそのまま目にする事はなかった。3ヶ月近く経っているということもあり、急速に整備が進んだのだろう。花光さんたちが前回訪問された時とも、かなり様子が異なっているとのこと。遠く距離をおいて想像する被災地と、実際に目にする光景とのズレを感じざるを得なかった。自分たちの想像が、想像でしかなかったことを思い知る。
 宮古駅付近は、海岸線から3キロほど内側、宿泊したホテルの近辺に「解体OK」と赤いスプレーが噴き付けられた家屋が点在する。流れて来たと思しき板切れなどが、道路際のあちこちに固められたりしてはいるが、道路そのものはきれいに片付いていて、車両の通行に支障はなく、バスも通っている。被害の大きかった地域なので、ホテルのフロントに置かれていた、震災当日や直後の様子を伝える写真雑誌を見ると、確かにこの辺りまで浸水した様子が見て取れる。盛岡駅で阿比留と「水が買えないと困るだろう」とミネラルを購入したが、実際にはローソンも営業していたし、夕食は地元の魚料理店で食べることもできた。しかし、聞けばそのお店も浸水してしばらくは営業を停止していたらしい。この日は私たち以外にもお客さんが何組もいて、お店も賑わいを見せていたが。
花光さんが、阿比留と私のことを、関西からやって来たダンサーだとご紹介下さり、ダンスによる支援なのだと言われたことを受けて、お店のご主人や奥さんは「それはそれはご苦労さんです」と笑顔。ダンスでボランティアということの内容まではおそらく想像しにくいのだろうなあと考える。いろんなジャンルの人がボランティアとしてこの地を訪れ、この町の人たちが私たちを含めたそういう人々のことを快く受け入れようとして下さっていることを直に感じた瞬間だった。かくして初日の移動日は暮れ、めいめい明日からに備えて部屋へと引き揚げた。


 翌日目覚めたのはしかし、アラームでではなく余震でだった。震度4。小刻みな揺れがほんのしばらくあった後、建物全体が大きくきしんだので、私は思わず部屋を飛び出した。「津波の心配はありません」との放送が響く。東北に来たのだという実感に見舞われる。朝の打ち合わせの時にこの余震のことを話題にすると、花光さんたちに「もう慣れましたよ」と言われた。東京でも毎日余震が続いた時期があったとのことで、被災地からの、関西の遠さというものを実感した。

 9日。この日最初に訪問したのは【つどいの広場すくすくランド】(午前11時から小一時間程度)。駅前のキャトレというショッピングモールの最上階の5階にある子育てプラザのような場所である。対象は幼児から学齢前の子どもたち。広いフロアーにたくさん遊具が置かれ、お母さんたちが思い思いに我が子を遊ばせている。はいはいのできる絨毯の場所に集まって頂いて、お母さんたちにも混じってもらい足指グッパーなどから始めて行く。自分のおうちにはない大きなお人形や鉄道セット、私自身の知らないような珍しいおもちゃがお目当ての子どもたち相手になかなか大変だったが、サルとクマの着ぐるみに身を包み、すもうを取ったり、仲直りダンスをしたり。魁文舎の松本さんが行司で花光さんが音響係と全員体勢。打ち解けて来た子どもが小道具のバナナ(模型)を離さず噛んだりなめたりの一幕も。ふだんバレエを習ったりしているのか、開脚を見せてくれる女の子もいる。「またダンスしようね」との男の子の声に見送られて短めの交流を終えた。

 二カ所目の訪問先は【金浜老人福祉センター避難所】(午後2時から一時間程度)。対象は避難所のご高齢の方々と障害者の方々。こちらの所長さんである柳沢さんが、今回とてもお世話になった方で、午前のすくすくランドも見学して下さり、ここでは実際にワークを受けて下さった。高台にあるこのセンターには、十数名の高齢者の方たちが静かに暮らしておられる。お天気も風通しも良く、何より床が畳だったので横になって頂きやすかった。手先足先のほぐしから始めて、呼吸が深くなることを旨としたメニューをゆっくりと進めて行く。お一人お一人の身体をさすり、その時々の心地を尋ねながら肩甲骨や骨盤まわりを緩める。皆さんとても真面目に取り組んで下さって、私たちのしょうもない冗談に時折笑いも漏れる。最後は仰向けでリラックス。お昼寝の後の目覚めのように気持ち良さそうにして下さることに阿比留も私もほっとする。
終了後片付けをしていたら、参加者の方の中から「ダンスを踊るのを見せて欲しい」というお声があがったと聞き、6分のショートピースをご披露することにした。4月に神戸のダンスボックスの震災復興ライブで上演した「人が二人いるとそこには」である。音源を持参していて良かったと思った。座布団をひいて、ちんまりおかしこまりして下さったおばあちゃんたちに「私たちのやっているダンスは、音楽がない部分があったり変な動きがあったりするんですよ」と、ちょっと前説明。6分という短さがちょうど良かったのだろう。楽しんで頂けた感じで、笑顔や泣き顔の混じった拍手に阿比留も私も胸が熱くなった。

 3カ所目の訪問先は【藤原学童の家】(午後3時半から一時間強)。対象は小学生で1年〜4年。さきほどの施設の柳沢所長さんの車に先導されて川を渡り、到着すると、子どもたちは今か今かと待ち構えてくれていた様子。そのきれいな瞳の群れに感激する。これまでも数多くの小学校にアウトリーチに行かせて頂いているが、「よろしくお願いします」と元気な挨拶で迎えられたのは初めて。この瞬間ふだんのプログラムで大丈夫と直感する。まずは私たちのプレゼンダンスを見てもらい、みんなで歩くことから始めてどんどん一緒に集中していく。子どもたちの反応の良さや勘の鋭さに助けられ、思わず私たちも夢中になっていた。男女比およそ半々くらいの子どもたちは、家族が夕方迎えにくるまでの時間をここで過ごしている。家を流された子もいると聞いたが、どの子なのかわからない。どの子の笑顔もまぶしい。中学校でしかやらないプログラムもあえてぶつけてみたが、みんなで励まし合いながら取り組んでくれた。終わった後も腕相撲をしたり、得意技を見せてもらったり。お世話をされている先生方が「親御さんとの連携を大切にしている」と仰ったことに納得させられる。誰かに大切にされている確信を身体の中に持っている子はふわあっと開いて来る感じがあるからだ。まさにこの子たちは希望の固まりだと思った。別れが本当に名残惜しかった。私たちの車が運動場を後にする時。出口のところでずっと手を振ってくれていた澄み切った表情が忘れられない。

 この後、宮古漁港の辺りを視察した。ここも例に漏れずかなり整備が進み、前回と景観が異なっているとの花光さんたちの言葉。漁港の建物の激しい損壊の様子から、被害のすさまじさを想像することはできるのだが、マラソンをしている人のグループが通り過ぎていったり、バスが通っていたり、既に震災当時との時間の隔たりを思わせられもする。海もあくまで穏やかだ。このままある種の廃墟の美しさのようなものに変わっていくのではないかとの怖れを感じざるを得ない。もちろん歩きながら見渡せば、泥々の日記帳、アイロン、パソコンのキーボード、鍋、しゃもじなどががれきの中に散見する痛ましさはある。言葉少なに歩いていると、陸地に乗り上げた大きな漁船をクレーンが撤去するところにふいに出くわしたりした。花光さんがこの地方に伝わる黒森神楽の話をして下さる。古くから町や村に伝わってきているものの存続、それもまた支援の対象であることを認識し直した。

 4カ所目の訪問先は【津軽石中学校避難所】(午後7時過ぎから小一時間ほど)。対象は熟年から高齢者の方々。こちらの避難所は段ボールでの仕切りがない。男女混合であるにも関わらず、開放的なしつらえ。おそらく同じ地域からの方たちでお互いに気心が知れているということなのだろう。開始予定時刻よりも早く着いたが、皆さんのお風呂の時間が終わって戻って来られるのを待つ。夜9時には完全消灯ということで、就寝前の時間に当たっていることもあり、身体ほぐしも、ぐっすり眠れることに照準を合わせて行うことに切り替える。おおむね私たちの進めて行く内容についてきて下さるのだが、中には「やらへんで」というボディアクションの方もいる。当たり前だと思う。私たちを待ち望んでいた訳でもなければ、入れ替わり立ち替わりやってくる訪問者に食傷気味でもあるのだろう。ましてや夕食とお風呂の時間の後の、読書と決めている時間かもしれないのだから。そうとわかっていても、私たちには伝えたいことがある。これを試して頂ければ身体が少しでも楽になり、それに伴って心も少しほぐれるんですよということ。それが今大切だということ。避難所の方たちと触れ合う時、慎重であることは大切だが、腫れ物に触るようにするのは違う。少なくとも私はそう思う。釣りの雑誌に目を落として微動だにしない男性。でも背中をさすると拒否されていないのがその感触でわかる。私が隣の人の方に移ろうとした瞬間、小声で「ありがとう」とその人は雑誌を見たまま呟く。読んでいた文庫を脇に置いて、最後には気持ち良さそうに仰向いて寝そべる別の男性もいた。呼吸の深さが最初と全然違う。その人はご自分の名前を教えて下さり、私はその名を絶対に忘れない。夜の避難所の場の空気は、ゆっくりと変化して行った。

 中日の全行程を終え、一夜明けた最終日。5カ所目の訪問先は【宮古シーアリーナ避難所】(午前10時すぎから小一時間)。対象は一般から高齢者。ここは今回訪問した場所の中で最も大きい。自衛隊の滞在場所でもあるらしい。各地の避難所から統合されてきた人たちが集っていて、あまり気心が知れていない者同士ということもあるのか、段ボールのパーテーションの高さからも、プライベートを守ろうという意識が強いことが昨晩の津軽石の避難所との違いを感じさせる。ふだんはバスケットコ—トだったはずの広いスペースから、食堂になっている別室に誘い、身体ほぐしをすることに。世話係をつとめている職員の人たちも参加して下さった。体育施設なのでストレッチマットなどもあり、みんなで円陣になって手指から緩めて行く。ちょうど同時期に野田村で支援を展開しているJCDNの神前沙織さんや、ダンサーの佐藤美紀さんが助っ人にかけつけて下さって、お一人お一人のケアーに力を貸して下さった。本当に感謝している。このシーアリーナ。寝起きしているスペースからワークの実施会場である別室に皆さんを誘い出すこと自体いささか骨の折れることではあったが、参加して下さった方の表情や血色が徐々に明るくなることを係員の方も喜んで下さった。今日みんなで試したことを一つでも二つでも日課にして欲しいと願う。

 かくして予定していた全行程を終え、7人全員で反省会を兼ねて向かいのケンタッキ—フライドチキンでお茶を飲み、地元の教育委員会を訪ねる花光さん松本さんたきしまさん組と、私たちを車で宮古駅まで送って下さる佐藤さん神前さん組は別れた。抜けるような快晴の空だった。
 花巻空港からの夕方の帰路の便は豪雨で大幅に遅れ、高速道路も豪雨でかなりの渋滞だった。帰宅するまでずっと、私は宮古で出会った方たちのことを考えていた。

    *************************

<まとめに代えて>
 あれから丸二週間。日を追うごとに記憶は鮮明になるばかりだ。今回は2才や3才の小さなお子さんから、86才のおばあちゃんまで、幅広い年齢層の人たちに触れた。文字通り、触れたのである。一人一人の方の背中。さするとちょっとずつ緩んで行く感触は、触った人間の手のひらにしか伝わってこない。
予想よりもずっと普通に消費生活を享受していた駅前の人たち。そこから車ですぐのところに起居する避難所の方々。その落差。
 仮説住宅の建設とそちらへの入居が急ピッチで進む中、避難所を訪れるには最後の好機だったということも痛感した。仮説に移れば当然プライベートは避難所とは比較にならないほど守られるようになるだろう。しかし改めて募る孤独感、時間差で襲ってくる徒労感のようなものはどう癒されていくのか。今回出会ったお年寄りの方たちは、身体がほぐれてくるといろんなお話を聞かせて下さった。私に、膝が痛いのをどうしたらいいかと尋ねて下さったおばあちゃんは、「この膝がこうなったのはね、がれきと泥を一輪車で7回も運んだから                               
なのよ」と繰り返し話してくれた。7回。この数字を語ることが、その人にとってどれだけ重要なことか。その人にしか語れない言葉。そして、その人に語られることを待っている言葉。それを外へ出すために身体はほぐされるべきなのだ。
 被災地、避難所、と便宜的に総称するが、一つとして同じところはない。そして一人として同じ被災者はいない。被災された方々に固有の身体があるからである。宮古で出会った大人の方たちに伝えたかったこと。それは「身体は、持ち主に大事にしてもらえることを一番喜ぶんですよ」ということだった。そういうことを共有していけた上で、一緒に踊ってみたいとさらに願わずにはいられない。建物や町の外観がせき立てられるように整えられることと、身体が回復していくこととでは、時間の流れが明らかに違う。
 今回宮古で過ごした3日間。これは、始まりだ。

 2011年6月24日金曜日

                 文責:セレノグラフィカ 隅地茉歩

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2011年6月20日月曜日

NPO法人魁文舎―宮古ダンサー派遣「身体と心のケア」ワークショップ2




 6月8日〜10日まで、2回目となる宮古でのダンサー派遣の「身体のワークショップ」を実施してきました。この活動は、JCDNとの協働によるもので、 ブルームバーグ社のスポンサーから旅費・滞在費をいただき実現しました。今回は、1:つどいの広場すくすくランド(未就学児とお母さんを対象)、2:金浜 老人福祉センター避難所(高齢者と身障者)、3:藤原学童の家(小学生1〜4年)、4:津軽石中学校避難所(高齢者)、5:宮古市民総合体育館シーアリー ナ避難所 (一般、高齢者)の計5箇所。90名弱が参加しました。
 ダンサーは京都のダンスカンパニー、セレノグラフィカの隅地茉歩さんと阿比留修一さんのお二人。コーデネーターは花光、アシスタント兼運転手に魁文舎の 松本千鶴、記録にたきしまひろよしさんが同行しました。また10日に実施したシーアリーナには、野田村に入っていたJCDNの神前沙織さん、ダンサーの佐 藤美紀さんに合流してもらいアシストをお願いしました。
今回は刻々と避難所の様相が変化していく中、何度も所長さんと連絡を取り合って出かけましたが、それでも当日ど うなっているか、行ってみなければわからない状況でした。求められるのは臨機応変、でも臨機応変が一番難しい。それなりの経験知がなければできない技です。
  セレノグラフィカのそれぞれの対象に合わせたプログラムは見事に皆の心を捕らえました。幼児向けにクマとおサルの着ぐるみを着てお相撲を取ってもらった り、金浜では避難所の高齢者とデイケ アセンターの身体の不自由な方々、スタッフや所長さんなど全員が参加して、細胞を体内から活性化させるような動きでうっすら汗をかき、学童の家では元気一 杯の小学生とダンスで遊び、夕食後に訪れた津軽石避難所では 、ゆったりと就寝できるリラクゼーションと、何でもござれのセレノの引き出しの多さと対応力 に脱帽でした。
 最初は「俺には関係ねえ」と露骨に寝そべっていた強面のおっさんも、最後には一緒になって柔軟して、別れ際には名残惜しそうに隅地さんにさよならを言っ ていました。シーアリーナでは、座って前屈するおばあちゃんをすっぽり後ろから抱きしめるようにアシストする阿比留さんの姿が印象的でした。息子のようで した。「もうじき仮設に移れるね、もう少しの辛抱だね。」
 仮設に入居しても2年後には出なくてはならない。でも今、少しずつでも小さくても希望の灯があることは嬉しいことです。

 この1ヶ月間に3度宮古に通いました。瓦礫は行く度に取り除かれています。商店街では、皆の後押しを受け居酒屋や名物いかせんべいの店などが再開 し始めました。6月末にはほとんどの避難所が閉鎖され仮設に移る予定です。現在は、仮設への引越しや統合で、避難所も落ち着かない状態です。公園や空き地 は全て建設予定地です。県の指定で、50世帯以上の仮設には集会所を設置することになっており、宮古の60箇所ある建設地の半数は、集会所が建つ予定で す。しかし、これまでほとんどの避難所の運営や所長は行政の職員が担当してきました。高齢者の多い仮設では自治会長のなり手がいないなど、新しい共同体が どう形成されていくのか、課題はこれからです。
 残念ながら、7月に行う黒森神楽の例大祭は中止となりました。神楽衆はやる気満々で私たちも応援に駆けつけようと思っていましたが、ほとんどの祭りが今 年は取り止めになりそうだとのことで非常に残念です。社協も仮設の現状が摑めていないので、これからの支援をどう展開していくのか今後の方針は伺えません でした。
 皆懸命にがんばろうとしていますが、気になるのは希望を持てずに殻を閉ざしている若い人たちです。仕事も無く、閑散とした午後の避難所に取り残されてい ます。地元で継続的な支援活動している団体との連携を組みたいと探していましたが、見当たりません。これから先どんな支援が必要とされ可能なのか、考えた いと思っています。

花光潤子(NPO法人 魁文舎)


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八戸、野田村 2 (3日目)--佐藤美紀

5/30
本日は、佐東さんの運転で野田村へ。
ダブルサトウと平島というローカル色ゼロのメンバーです。

中学校横の避難所は5月末で閉鎖(つまり翌日)米田地区も滞在者は少なく、昼間は家の掃除や修復に行っているから人は居ないよ、とのことでした。昼間は作業の時間。家を直したり、掃除したり。そんな時間。
それでも、様子見と今後の為に、野田村を視察。

野田村の復興は早い。
行方不明者がゼロになったので、重機も入る。
つまり、行方不明者がいる間は、まず自衛隊が瓦礫をチェックし、住民がチェックし、解体OKサインを出さないと重機は入れない。
住民が残っていない家屋、店舗が多い地域は、復興も遅れる。
確認作業も出来ない。

時間がかかるとは、ひとつひとつ、そうやって理由がある。
広さもとてつもないものだし。


どうでもいいけど、この日、昼間で7度だったよ!
さむ~~~~~い。
こんな雨の中、作業するのって、大変。



カラダホグシがなくてもやることはある。下見と今後の展開さがし。
霧と雨の中(軽い台風)苫屋なる、ウワサの店を探す。
山の中、アジア民族造形館の隣らしい。さっき、駅でもらってきた野田村マップが役に立つ。
そひて、あいぽんのお二人は電波なし。
どーでもいいどこもを使っている私のアホケータイが役に立つ。
マップで正確な山奥の位置確認可能! すばらしー

アジア民族造形館に到着。
おおおおおおお~~~~~~~、こんなトコロが、なぜこんなトコロに!!!!
残念ながら被災のため5月末までお休み。
6月1日からオープンだって。残念ながら入れなかったけど、外観を堪能。

そして、苫屋さんへ。

こちらも、お休みだったぁ・・・・・
そ、だよね。となりのアジア民族造形館と連動だよね。


帰り道、 特別養護老人ホームことぶき荘、デイサービスなどの施設を通過。
結構大きいな・・・と、チェックし、後ほどの展開に回す。

そして、えぼし荘という国民宿舎が避難所になっているというので、行ってみる。


村役場などの中心地から車で15分位。
車しか移動手段はない。
リアス式海岸沿いを走る。
線路は・・・・途中が無い・・・


えぼし荘、到着。
佐東さんがスミマセン~と入り、平島がトイレを借りに行き、私が受付の女性と話す。
一般に人が泊まることも出来るの?と私が聞いたら、女性が嬉しそうにどうぞ!!と。
ここから、話がはやい。
佐東さんが、何をしに来ているかなど概略を説明すると、まったけさんなる人物を紹介される。
彼がどうやらココのキーパーソンらしい。
ブログで自分たちの状況、必要なものなどを発信し、日本全国、いや世界から救援物資をゲットしている・・・
そして、一番びっくりしたのは、野田村入りするときに見ていたYoutubeの映像、津波が来る瞬間を映像にとっているご本人だった!!!
良かった、生きていて・・・
支援物資でPCを手にいれて、携帯の回線で情報を発信し続けている。
この村にそんなブロガーがいるとはっ!驚き。
情報格差はここまで浸透か・・・

村役場から離れた避難所で、救援物資も少なく、炊き出しも情報も少ない中、本当に多くの住民のためになっているのではないだろうか?
今必要なものは一刻一刻変わる。
行政では間に合わない。
村役場も遠く、車のないお年寄りには行かれない。
1日、数本あるバスを待つしか方法はない。

まったけさんぶろぐ

津波の映像

で、また、来ることを約束し、この日は帰る。

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八戸、野田村 1--佐藤美紀

5/28
新潟から仙台へバス移動。
仙台メディアテークにて、スピーカーマイクを受け取る。

街中はいたって平常を取り戻した模様。ショッピングに人が出ている。
メディアテークも7階部分以外はオープン済み。
図書館にはたくさんの人。いつもこんなに混んでいるらしい。
メディアテークでは震災をどう記録するかなど、次へのステップが始まっているようだった。


午後、会津若松にいた佐東範一さんと合流し、八戸へ。
道中、打合せ&野田村のお祭りや津波の映像などをyoutubeでチェック。

八戸は駅から市街地が遠いらしい。
知らなかった。八戸のはっちに宿泊。
この施設、素晴らしいですね。
高校生が勝手に好きな場所で勉強しているのがいい。
地元の人達が何気なく入ってくるのがいい。
中央吹抜けでは、タレルが見れるのがいい。(笑、映像あり。要チェックです。)

その日の夕方、野田村でボランティア活動を活発におこなっている『チーム
北リアス』の八戸高専の河村先生、京都大学の永田先生、はっちの渡邉さんと打合せ。翌日の野田村イベントについて、概略を聞く。
渡邉さんのところには、仙台からSTOMPメンバーによるボディリズムワークショップなどを被災地で行う話など持ち込まれている様子。
この『はっち』は本年2月11日にオープンしたとのこと。その丁度1ヶ月後の3月11日には避難所となる。
被災地に向かう北からの玄関としても『はっち』には機能して欲しいなど、話す。

八戸高専の方々は、かなりの頻度で野田村に通っている様子。
ボランティア・センターを通す活動だけでなく、若い母親の為に子供と遊ぶなどを日曜日に行ってるらしい。

翌日のイベント概要・・・
80イベント(ハチマル→ハジマル→始まる)
震災から丁度、80日目。
被災者達がボランティア達に日頃の感謝をすべく炊き出しを行うという。
八戸高専の方々が、足湯+ハンドマッサージを行うので、そのとなり(?)などでストレッチを行う。
様子を見ながらワークショップやパフォーマンスに展開か???
実際のところ、まったく状況は想像できず。行けばわかるよね?という感じ。


『チーム 北リアス』とは・・・八戸市、弘前市、関西の諸団体(八戸高専、弘前大学人文学部、大阪大学、関西学院大学、京都大学、(特)
日本災害救援ボランティアネットワークなど)、および、全国の有志の皆様が中心となったボランティアネットワークです。

場所を変えての顔合わせ(?)には、八戸高専の斎先生、弁さん、大澤さんナドナド・・・把握しきれませんでした。。。ごめんなさい。



5/29
翌朝7時、東京から平島さん、到着。
今回、かなり無理なスケジュールを依頼してしまった。
彼は土曜日の夜まで本番で、そのまま夜行バスに飛乗り、八戸入り。朝7時着。
そうそう、バスがちゃんと街中を通過することに前日のMTG中に気がついて良かったよ。
そうでないと、八戸駅からどうやって来てもらうか悩むところだったからね。

で、彼はいきなり『はっち』に登場し、荷物を置き、佐東さんのいれていた朝のコーヒーを飲んでいた。
ちょっと寒いので、私はお風呂に入る。

8時半、はっち出発。
弁さんの運転する車に、佐東さん、永田先生、大澤さん、平島、佐藤。
サトウが二人でメンドクサイ現場になっていた。。。
ミキさんとノリさんで、と言ったけどノリさんって・・・呼びにくいらしい(笑)

残念ながら、雨。

途中、道の駅にてお買い物。
ヤバイ。買い過ぎる。食べる物が全て美味しそうで、買いまくり。
(ココロの中で、ここにお金落とすのも経済効果♪経済効果♪といい訳しつつ・・・)

久慈という小さな街を過ぎ(後から分かるけど、ここがボランティアの本拠地となっている様子。)野田村に入る。
その、丁度境界ぐらいに瓦礫の山が。
村役場前あたりは、本当に何もない。
何もないエリアに瓦礫の山、山、山。
変な話、写真とおんなじ。この1カットだけだと、ネットでみた写真とおんなじ。
でも、こんな風景がず~~~っと繋がっているのを目の当たりにし(特に2回目の宮古行き道中)これが500kmだか800kmだか続いていることを考えると、ぞ~っとする。

ニュースで見る『今回の被災は広範囲にわたっているため・・・・が遅れ・・・・』なんだか、この広範囲というコトバだけでは、足りないような気がする。広範囲の意味をきちんと伝えられないんじゃないかしら?
そんなことを考えつつ、村役場へ。

ボランティアや炊き出しの準備隊が到着する中、ワタクシ達は八戸高専の河村先生が予約されていた社会教育会館(で、あってるかな?)2階、会場へ。ここの1階ではお米を配布していた。
気温は下がっているし雨も降っている。
そんな環境の中、使う部屋はPタイルで床が冷たい。
普段はみんなが土足で出入りする部屋。小さな舞台が付いていてそこは木だけど、狭いな。。。
う~ん・・・ここで床に座ってのストレッチは無理!っと判断。
みなさんと相談しエリアを決め、舞台上の荷物類をまとめて移動し、半分を床も使える空間に。ここはねっころがれる。
それ以外のPタイル空間は、椅子を使ってのストレッチを中心に行うことに。
それでも、靴は脱いで欲しいので、土足禁止エリアを設ける。
大掃除。ありがとう!八戸高専の生徒たち!!! こういう時人数がいると、本当に助かるっ!
一人だったら、泣いていたわ。
足湯チームもお湯を沸かして、準備ほぼ完了。
この時の予定では1セッションが30-40分のストレッチを想定。

外でセレモニーも始まり、開会のことば。
まだ、人は来ないだろうと、イベントの中心部へ行く。
そのまま、炊き出しが始まり、今のうちに少し食べましょう!と、炊き出しを頂く。
有名な中華料理の先生(?)作成の中華丼はすごい列!
なんとなく、空いている所のおうどんと、焼肉丼?をシェア。
しっかし寒いなぁ~。
とっくりセーターに革ジャン持ってて良かった!!!

そして、食べてばかりいてはいけない。
仕事に来たんですよー。
お客さん、来るかな?

炊き出しエリアでは、久慈のアーティストによるライブが始まる様子。
ここから、社会教育会館まで、移動する村人はどれくらいいいるだろう?
まず、雨に濡れる。
地面はドロドロ、水たまり。
救いは2:46pmの地震があった時間に沢山の風船をあげるので、それを楽しみにきている人も多いということ。
と、いうことは、うま~く誘導出来れば、時間はある・・・(この時12時頃)

誘導作戦を佐東さんと大澤さん、弁さんに託し、仙台で借りてきたマイクセットを呼びこみに使ってもらう。

何時からストレッチ~と言っても難しそうな状況だったので、やりっぱなしスタイルに。
つまり、いつ来て入っても、いつ抜けても良いよ!という方法に。
この方法と椅子使用だったので、足湯を目的に来た人が、足湯待ちの間に参加してくれるというローテーションが出来上がる。
中には、足湯の後にも参加してくれた方々も!
嬉しー
子供が入った時は床でも。
母がかなり喜んでくれた。

そして、地元のおばあさまのお話も少しづつ聞けて。良かったー
最後に八戸高専メンバーが入ってみんなで・・・
これ、違うことやればよかったね。
はじめちょっとジャズダンスっぽい人が動きたい~って、来たので、アイソレーションはじめてしまったのよね・・・
でも、高専チームだったら、別のことやったのに~~~
アイソレーションの後に、○△□とかしたかったのに、そこまでやる時間が無くなってしまったのよねーーー
あそこで、5分でも無理にやれば良かった。後悔の巻。またいつか何処かで。

そんなこんなで、同時に最高20人近くの方がうけてくれる、椅子でのストレッチ。
2時間とちょっとやっていた感じでしょうか。
延べ人数わかりません・・・50人ぐらい?


メインイベントの風船時間前に、広場に行く。
私も風船を手にする。
2:46 ピストル音で風船を空に。



映像も撮る。



戻っておかたづけ。

そのあと、野田村教育委員会、教育長と会うことが出来た。
今回のサポートをしてくれているアメリカの会社、ブルームバーグさんからのお預かりカード(アメリカの子供たちが日本の子供達に書いた、メッセージカード)を無事に渡す事が出来、記念写真も撮れた。


途中、道の駅に再び寄り、八戸に戻る。

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2011年6月19日日曜日

東松島市子育て支援センター訪問と仙台ARCTとのミーティング報告

AVN311のコーディネーターの吉野です。
今回は、JCDNのダンサー派遣活動とAVN311(http://www.avn311.jp/)と、現地の活動団体との今後の連携の可能性などを探る目的で、東松島市の子育て支援センターと、せんだい演劇工房10-BOX内に事務所を置くARCT(http://arct.jp/)を訪問してきました。

・東松島市役所 矢本子育て支援センター「ほっとふる」
 宮城県東松島市矢本字大溜9-1

〈訪問の経緯〉
AVN311を通じて、JCDNのダンサー派遣に関心を持って下さった「日本プライマリケア連合学会(PACT)」(http://www.primary-care.or.jp/-care.or.jp/)より、被災地各地の小さいお子さんのいるお母さんの支援になにかつながれば、ということで紹介されました。
元々予定されていた、お母さんたち向けの医療関係者との相談会に同席し、そこで、子育て支援センターのスタッフや、来訪するお母さんや幼児たちの様子などを実際に見て、今後の可能性について話し合えればというようなお申し出から、今回の来訪につながりました。

〈訪問メンバー〉※敬称略
JCDNマッチングサイト登録ダンサー:山田珠実、早川朋子
仙台在住ダンサー:千田優太
ARCT事務局:伊藤み弥
※千田さんと伊藤さんは、仙台の踊りにいくぜの関係者でもあります。

〈当日の様子など〉
午前中は、子育て支援センターと日本プライマリケア連合会の人たちによる相談会「妊婦・赤ちゃん広場「専門家とおしゃべりタイム」」に、オブザーバー的に参加。

15組ほどのお母さんとお子さんたち。お子さんの年齢は3ヶ月くらいの赤ちゃんから3歳児くらいまで結構幅がありました。
子育て支援センタースタッフの方による、手遊びや短いわらべうた遊び、お母さんとお子さんどうしのちょっとした自己紹介のようなゲームがあって、場がほぐれたところで今回派遣されてきた専門家チーム(小児科医、栄養士、看護士、保健士など)からそれぞれに少しお話がありました。その後、お母さんたちはそれぞれに、話を聞きたい専門家の周りに集まって、近くでこどもたちをおもちゃで遊ばせながらいろいろ相談したりする、というような流れ。

事前に、子育て支援センタースタッフの方から、「あちらにぬいぐるみがたくさんありますので、みなさん(私たちのこと)も、それを持ってお子さんがいるつもりになって、一緒に参加して下さい。」と言われたので、各自思い思いのぬいぐるみを手に手遊びなどに参加。

前半のワークショップ的な流れの中での、お母さんや幼児たちの様子は、被災地だからというような特別なことは表面的にはあまり見受けられない、同じようなことを後で専門家の方も言っていました。お母さんやお子さんたちの服装や雰囲気を見ていて、なんとなく、少しでも明るく前向きでいたい、という気持ちがあるようにも思いましたし、センターのスタッフの人たちも、安心してリラックスし、心の和らぐような雰囲気をつくるようにされているなとも感じました。実際には、大きなお腹を抱えて後ろから水が迫る中避難
し、その後で出産されたという若いお母さんがいたり、「上の子がちょっと赤ちゃんがえりをしているんです。」と話される方がいたり、それぞれに不安やストレスを抱えながら子育てをしているという状況もあるようでしたが、直接的にそうしたことを話題にはしない、あえてしない、というようにも見えました。いずれにしても、外からの見え方だけなので、本当のところはわかりません。

今回、企画をしている矢本子育て支援センターのスタッフに加えて、地元の少し年配の女性のボランティアスタッフや、隣町で現在避難所になっているため活動ができなくなっている別のセンターのスタッフ、視察的に来られていた石巻のセンターのスタッフの方も参加していて、専門家の方と話す以外にも、あちこちで、こうした方たちとなんとなく話したりしているお母さんたちがいたり、こうした応援スタッフが子どもたちと遊んでくれていることで安心して他のお母さんと話したりしているお母さんたちもいました。こうした環境と時間がとても必要とされているようでした。

午前中の会の後、スタッフと専門家チームの方と話す時間が持てました。
看護士さんや小児科医の先生からは、お母さんの肩がとても張っているので、それをほぐすようなことがしてもらえたら、という意見がありました。肩や背中の血流が良くなると、母乳の出も良くなるということです。
スタッフの方からは、お母さん自身のリラックスやストレス軽減も必要なので、ダンサーの方となにかできるとしたら、そうした目的で、親子でできるものもいいけど、すぐ側で託児をしてもらえて、子どもと離れてできる時間もあるといいのでは、という意見も聞きました。

また、今回、仙台在住の千田さん、伊藤さんが一緒だったことはとても大きな意味があったと思います。
センターの方もお母さんたちも、同じ地元の人がいると言ったとたんに、明らかに表情が和らぎます。中には、「じゃあ、継続的にかかわってもらったりもできるんですね。」と言われた方もいました。
また、石巻のセンターの方は、「うちはここぐらいの小さいおこさんたちも多いけど、もう少し大きめのお子さんたちも多いのですが、そうした場合でもなにかお願いできたりしますか?」ということを聞いて帰っていかれました。


〈ARCT訪問MTG〉
午後は、沿岸の被災地域を通って仙台市内に戻りました。だいぶ瓦礫が片付いたところもあれば、まだかなりそのままの状態で残されているところもありました。山田さんと早川さんは、こうした状況を目にするのは今回が初めてでした。
私たちのためにと、わざわざ沿岸を通ってくれた千田さんと伊藤さんですが、私たちにとっては非日常的なこの光景が、既に日常に近いものとなっていること、外からやってくる人たちを案内する度に感じる温度差のようなものが、なにか疲れさせてしまうのではないかとも思いました。それでも、こうしていろいろな人たちとつながって、自分たちの地域のために動こうとしている彼らの意志と責任感の強さも同時に感じました。

10-BOX内のARCT事務所では、事務局の鈴木拓さんや他のスタッフの方と、朝から一緒だった伊藤さんと、今日の午前中の報告や今後についての話をしました。前日夜に伊藤さんから紹介されていた、ARCT出前部のリーダーでダンサーの千田みかささんも途中から参加されました。

現在ARCTでは、出前部が避難所や学校や施設などあちこちでのワークショップ活動などを行っています。
ニーズはかなり増えていて、継続的な関わりが求められる場も多いため、現在のメンバーでのコーディネート業務や活動がだんだんと大変になってきているようです。また、ワークショップの手法などをある程度持っていてすぐに活動できる人材にも限りがあるので、人材の育成も急ぎの課題として浮上しています。

こうした課題を、今後AVN311やJCDNの活動との連携によって少しでも解決することができたらと思いました。
恊働での研修や、手法などを共有するための場があってもいいでしょうし、コーディネート業務を代行して外部から派遣されるアーティストの現場に現地のアーティストが一緒に入るように常に事前に情報を伝えて声がけしていくとか、具体的な方法が既にいくつか考えられると思います。こうした連携は一方的に現地の関係者のためと考えるのではなく、今後の社会の中でアートが果たす役割などを考える上で、お互いにとって有益な、相互に協力しあう活動として考えていけたらとも思います。

また、ARCTのように地元で活動を継続している人たちや、一般的な支援活動を支える人たちの心身の疲労に対して、なにかできることも一緒に考えたいと思いました。

いずれにしても、地元の団体や人と恊働して、長期的な視野に立ってできることを、これから具体的に検討していく必要があると思い ました。

以上です。

吉野さつき

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2011年6月10日金曜日

岩手県野田村 80(ハジマル)式にてからだほぐし



5月28日会津若松から、仙台でダンスアーティストの佐藤美紀さんと合流し、八戸へ入る。夜にボランティアチーム”チーム北リアス”メンバー、”八戸工専の河村さんたちとミーティング。29日朝8時に”はっち”駐車場で集合し、ベンさんの車で野田村へ。こちらのメンバーは、佐藤美紀さん、早朝に東京からバスで八戸入りしたパーカショニストに平島さん、ベンさん、4月から八戸市のアートコーディネーターになった元地域創造の大澤さん、佐東の5名。



本日野田村では、3・11から80日目のイベントとして「80(はじまる)式」が開催され、そのイベントと並行して、八戸工専の学生さんたちによる、フリーマーケット、足湯マッサージが行われ、そして 我々”からだほぐし”を担当する。まず始めに、町長さんによる、津波で倒れていた町の看板の石碑を起こすことによりこれから復興していきます、という挨拶。








このはじまる式は地元のNPOが主催して、地元の人たちが、これまで支援してくれた人たちに炊き出しを行うことをメインに、外からも中華の鉄人の中華丼、あのB級グルメの十和田のバラ焼きなども出る。久慈市から地元のバンドがずっとなつかしのフォークソングの歌を歌っている。


足湯マッサージとからだほぐしの会場は、はじまる式の会場からすこし離れていたので、 ベンさん、大澤さん、佐東で、案内+声かけ係。すこしづつ集まってきてくれた。

















うーーーん、とからだを伸ばす。えれーと言いながら気持ちよさそう。








帰りがけに、みんな口々に、「久しぶりにからだを動かしたら、気持ちよかったー」「すこしからだが軽くなったー」「子どもと一緒にからだを動かせてよかった」など、喜んでいただけてよかった。終わってからも、腰がいたいんだーと言って、美紀さんのマッサージを受ける方、なんとなくもっとやりたそうな方、また来るからね。



横では八戸工専の学生さんによる、足湯マッサージ。みんなリラックス。

2時半に野田中学校の生徒さんたちが、2時46分に飛ばす風船を参加者全員に配っている。


2時46分運動会のピストルの号令の元、全員が風船を手放し、飛んでいく。









バンドが、九ちゃんの「上を向いて歩こうよ」を演奏し、みんな口々に口ずさむ。どこまでもどこまでも風船が飛んでいくのを、いつまでも見ていた。(佐東)

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