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2011年5月29日日曜日

宮古にて(東野祥子ブログより)

目の前の流された家、位牌や結婚写真、手紙や家具、様々なものが津波で流されたまんまになっている。

がれきの間、道路は車が走れるくらいに整備され、解体もどんどん進んでいる。
仮設もすごい勢いで建っている。

被災地でのストレッチワークショップ。
実際、同じ体育館でも地域創造企画のダンス活性化事業の一環の地方でのワークショップとは全く違う環境。
日常の生活環境である避難所にいる人たちは、やってきた私たち一行を「なんだこの人たち?」的な無関心さ。
これは、段ボールで仕切られた1人二畳ほどの空間で、すべて丸見えの家の中。覗かれててもしょうがない。
「さあストレッチ一緒にやりましょう!」と声をかけてもじーーーーっとしたまま動かないおばあちゃん、日中、寝転んだまま 本から顔を上げない30代男性、わざと忙しそうにはたはたと敷居内をお掃除をする奥さん。盲目のおじいさんはWS中、殆ど動かなかった。相手がどうなって るか見えないからということで遠慮されていた。

寒いところで厳しく暮らしておられる東北の方々は、この状況を黙って耐え忍ぶ。
さて、WS。
舞台上にあがることなんて恥ずかしいー。と照れておられてはなかなか始まらない。
魁文舎の花光さんが大声で声をかけていく。 私たちも1人ずつに声をかける。

ゆっくり呼吸を整えていく所からスタート。次第に参加する人が増えていく。見渡すと遠くの方のイスに座った方々も参加してくれている。
終わる頃にはみんなほかほか、汗をかいている。

私にできるボランティア、、、、
ダンスでストレッチでみんなの凝り固まった身体をほぐしたいという気持ちで挑んでみたけど、終わってからみんな口々に「よく眠れそう」「久しぶりに汗をかいた」「肩が動くようになった」「首が回るようになった」などなど、少しは役に立ったみたいで本当に嬉しい。
やってる最中も、笑顔でくすくす笑ってくれている。
よかったーーーーーーー!!!

3カ所でのワークショップを終えて、中には心に傷を負ってて、他人を寄せ付けないで閉じこもっている方もいるなと感じた。
そういう人こそストレッチしてほぐしまくってほしい。
きっと身体を開いていけたら気持ちもすこし楽になるのに、、、。
なかなかその場限りでは難しい。

出来る事を一個ずつ。





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2011年5月27日金曜日

NPO法人魁文舎―ダンサー派遣「身体と心のケア」ワークショップ



岩手県宮古で、ダンサー派遣「身体と心のケア」ワークショップを実施してきましたので、報告します。
日程は5月20日~22日の二泊三日。ダンサーはBABY-Qの東野祥子、コーデネーター花光、アシスタント/運転手/記録にカジワラトシオと魁文舎の松本千鶴の4名でした。
21日に朝10時から愛宕小(現在避難者60名)、1時から宮古第二中(78名)、3時に鍬ヶ崎小(74名)の3箇所を実施し、夕方一番大きな避難所の市民アリーナ(150名)を視察。
各避難所とも日中残っていた高齢者、未就学児童と母親、スタッフなど約30名が参加しました。
22日にダンサーは帰京、花光と松本は次回のオーガナイズのため残り、津軽石地区の避難所3箇所を訪問。

今回の実施で改めて実感したことは、避難所の様相は日に日に変化していて、誰も2週間先の状態を掌握予測できず、人頼みのマッチングは期待できない ということ。けれど疲れきったお年寄りや先の見えない不安を抱えた人々がそこに存在し、今必要とされ私たちにできることが少なからずあるということです。
「肩凝っていませんか、腰痛くないですか?少し身体を動かして凝りをほぐしましょう」という呼びかけで始めたワークショップ。最初は及び腰だったお年寄り も序々にまねし始め、気が付けば広い体育館のあちこちでボランティアの人も役所の職員も、ほぼ全員が参加していました。私たちも中に入って、恥ずかしがっ て自分の居場所から出てこない人たちをケア。東野さんの指導は抜群でした。
「久しぶりでいい汗かいたから、今日はぐっすり眠れる。」最後は下着1枚でねじり鉢巻になったお父さんも・・。「首が動かなかったのが動きます。」「たいした楽になりました、毎日少しずつでも続けます。」
身体が楽になると心もほぐれるのか、皆口数が多くなり互いに冗談を言い合って空気が一変しました。初めて笑っている顔を見ました。先週各所長さんに「是非 やってください」と許可をもらったものの、本当にうまくいくか正直不安でした。目を閉じてじっと正座しているお年寄りに、何を話しかけたらいいのか言葉が 見つからず、初めて来た時には声もかけられなかった・・。今回皆の笑顔を見ることができ、一人ひとりと手を握り合って言葉をかわし、本当に来て良かったと 思えました。東野さん、ありがとう、お疲れ様でした。

宮古は交通の便も悪く、東京からは片道6時間弱かかります。宿も三陸沿岸沿いのホテルは全て流され、盛岡から宮古までの30件近い宿泊施設をしらみ つぶしに電話をかけ運良くキャンセルを見つけましたが、それがなければ寝袋覚悟でした。当初は1日3箇所を廻り2日で6箇所を計画していましたが、ダン サーの精神的体力的疲労度も通常の倍以上なので、これ以上のスケジュールは無理だとわかりました。避難所でのワークショップは6月一杯が限度でしょう。仮 設に引きこもってしまったら、お年寄りのケアは難しくなります。以前ダンサーの南流石さんを山田町の避難所に派遣した「いわて災害医療支援ネットワークセ ンター」の本部長にメールと電話で直接支援の打診をしましたが、多忙を極めているとのことでマッチングや連携は見事に断られました。社協のボランティアセ ンターにも再度行ってきましたが、先週依頼したマッチングの申請書は、机の棚に保管されたままでした。避難所の行政担当も週代わりで変わるので、マッチン グは誰にも期待できません。本気でやる気なら自力でコーデネイトするしかないのです。大きな避難所は慰問の嵐ですが、交通手段の不便な小さな避難所は見過 ごされています。今度は6月8日~10日まで、今回訪問した宮古の別な避難所3~4箇所にダンスカンパニーのセレノグラフィカを伴って行く予定で始動して います。

今回視察した市民アリーナで、私たちが帰ろうとしたら追いかけてきたスエット姿の若い女性がいました。「家は流され、お母さんとも生き別れで、死ん だとは思えないから切ない。避難所生活が長く皆疲れきって、心が病んでいる人もいるから、せっかく来てくれてもその好意に応えられない人もいるだろう。そ れでも来てくれたら有難い、やっぱり本心は嬉しいんだと思う。だから覚悟してきてください。応えられない人もいると思って覚悟して、でも来てください。」
私は一瞬胸がつまりました。私は何程のことをしているわけではない。今回の成果でダンスで何かできたと自己満足したらとんでもない慢心だ。この人の痛みや被災者の悲しみに、私たちは何にもできないんだということを自覚しながら、それでもできうる小さな何かをやります。

花光潤子(NPO法人 魁文舎)


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2011年5月17日火曜日

5月1日ー5日 東北行きの報告

現在様々なジャンルの方と進めているアートビジョンネットワークの準備のために5月1日から5日にかけて、盛岡、八戸、岩手県野田村、仙台と回ってきました。時間がだいぶたってしまいましたがその報告を。自分で言うのもなんですがとても稚拙な文章ですがお許しを。

5月1日に京都を出て、夕方に盛岡に入り、上記のネットワーク事務局の方々と合流して、盛岡の劇場や演劇、文化関係者の方々とのミーティングを行い、その 後の飲み会で、今、そして今後、演劇人、ダンスの人たちに何が出来るのか、それはいつのタイミングなのだろうかと継続して話し合いました。

その中で「地元の民俗芸能をアーティストが習う、という入り口ならば、ありかもしれない。重要なことは、アーティストが上に立って、何かをするのではなくて、いかに対等な立場に立ってできるのかということだ。」というお話がありました。
そこにわらび座の是永さんもいらして、東北の沿岸部は民俗芸能の宝庫である,ということも知りました。このことが旅の間中頭の中を回っていました。

2日は朝から八戸に入り、はっちでの八戸東高校の生徒さんたちへの平田オリザさんのWSを拝見して、その後のはっちと市役所の方々とのアートによる支援のためのミーティングを行ないました。

その後に、偶然にアーティストの安岐理加さんに出会いました。八戸から車で一時間半ぐらいの、岩手県野田村というところで、何かをやって欲しいとのこと で、今からその誘ってくれた八戸工業高校専門学校の川村信治先生と打合せをするところでした。川村さんは学生を連れて、何度も野田村に入っているとのこと です。

その川村さんが、私も以前から知り合いだったので、打合せに混ぜてもらいました。そこに市の方や、青年会議所、そして関西からのボランティアチームの方々がいて、野田村の支援を長期的に行うために、ネットワークを作るためのミーティングでした。

関西からのチームは、大阪大学大学院人間科学研究科の渥美教授を中心に京都大学、関西学院大学などの人たちでした。

渥美さんは「日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)というNPOの理事長で、神戸の震災のときに発足し、様々な支援活動を行ってきている
所です。今回も、西宮からバスを出して、学生たちが入っているとのこと。野田村で家を借りるか、プレハブで家を建てるかして長期の支援を考えているとのことです。

次の日に、野田村にみんなで入るということで、同行することになりました。アーティストの安岐さんと一緒に、八戸の知り合いのスペースベンの田中勉さんと
もと地域創造のダンス担当で、今年の4月からアートコーディネーターとして八戸市の職員になった大澤苑美さんも今後のために同行してもらいました。

野田村は海から役場までの町の半分が、つなみで流されている状態です。ボランティアセンターがあり、全国から来ているとのこと。着いてすぐに、役場のとこ ろで、子どもたちが、綿菓子を、手製の機械で作っていて、入り口には、1時から「アニメ上映会」戸田恵子さんたちが生で吹き替えをするというポスターが 貼ってあり、まず見に行きました。

5-6本のアニメの上映と、最後は機関車トーマスを、戸田さんと3人の声優さんが生で声を入れていく、かなり贅沢な迫力のあるものでした。子どもとその親御さんで、小さな会場は満員で、7-80人ぐらいいたでしょうか。大変大変みんな喜んでいました。
この綿菓子とアニメのコーディネートをしていたのが、NPO法人岩手子ども環境研究所で、その理事長の良成信夫さんとも会えて、いろいろと話をしました。

その後、3時から、民俗芸能があるというので待っていると、大型バスで熊本県のグループ30人ぐらいが到着しました。スピーカーから全て持ち込み+てんぷ らをそこで揚げて配ると言う、ものでした。全部は見れなかったのですが、約1時間、近隣のお年よりが、4-50人ぐらい集まって、それ以外にもボランティ アの人たちも見ていました。

そこでまた、野田村出身で、現在中国で事業を行っている女性を紹介され、来週小学校の体育館で友人の歌手の”あみん”のコンサートをする、といっていました。

その間に避難所を私は2ヶ所回りました。
現在、野田村の体育館に支援物資が集まりすぎて、床が抜けそうになっているので、あるものを写真を撮り、写真入のリストを作り、川村さんが各避難所に回る のについていく形です。その避難所のことは、うまく書けないので、やめておきますが、ただ言えることは、当たり前ですが、みんなの家、プライベートな空間 だということを痛感しました。

その後、連れていっていただいたボランティアチームの方々と飲みながら話をしました。

彼らは、復興支援においてアートの力が必要だと思い、どこか組めるところを探していたとのこと。それは、コミュニティのいかに継続していくかを考えたときに人と人をつなぐのにアートが有効だと考えているからです。

そして、野田村において、毎年8月23-5日が祭りなのだけれど、このような状態で出来ないので、何か別のことが出来ないかの相談を受けているので、何か 一緒に出来ないだろうかとのことでした。そこで、盛岡で話が出た、アーティストが、地元の民族舞踊や盆踊りを習って、他の人たちにも教え、祭りを少しでも 復興するのはどうだろうかと話したら、それは可能性があるかもしれない、今後一緒に考えましょう、ということになりました。

具体的に、6月にはいると、今避難所にいる人たちが、仮設住宅に移ることになる。そうすると本当にコミュニティがばらばらになってしまう。その前に、何らかの始まりを作るべきだ。5月中には何らかのアプローチ、キックオフの活動を始めようと言うことになりました。

京都に戻る間、戻ってからも、民俗芸能、盆踊り、祭りの復興支援について考えました。これは演劇・ダンス・美術・音楽、それぞれの得意分野を活かしながら協働で取り組むべきものなのではなかろうかと勝手に
思いはじめました。

ひとつとして、避難所で座りきりになっている高齢者に、その地の盆踊りを教えてもらうこと。いままではその地域だけで行われてきたものだと思いますが、
その時代を超えて文化をつないでいく役割をアーティストが少しでも担うことは出来ないだろうか。
今回のひろい被災地で、例えば、Aと言うダンスアーティストが、Bという地域の盆踊りを習って、毎年夏になると、Aさんはその祭りに参加する。もしかしたら、その地域の次の世代に盆踊りを教えることが出来るようになるかもしれない。

同じように演劇の人、音楽の人、も同じように、何かできることがあるだろう。重要なことは、主体は現地の方々であると言うことです。
その方たちが中心となり、外からの私たちが、その地域の文化を、習い、次の世代につないでいくために出来ることをする。そして我々自身が毎年祭りや何かがあるたびにその地に、関わっていく。そんなことを考えました。

これは全く的外れで、外部の人間がその地域に脈々と続いている芸能を触ることは、失礼なことだということがあるのかもしれません。

たまたま一昨日、神戸のダンスボックスで、復興支援に関するミーティングがあり、上記の話を話していたら、阪神の震災のときに、長田区役所の避難所の担当 だった方がいらして、神戸の場合、コミュニティを持続させることが出来なかったのが、大きな失敗だった。各地の祭りを復興させようと試みたが、一度ばらば らになってしまったら元に戻すことが出来なかった、それが心から悔やまれる、と言っていました。

そしてもしアーティストが関わることによって、地域の祭りやコミュニティが持続できることが出来たら、復興においてそれ以上のことはないと言っていました。

そしてアート活動に関して、上記の野田村のように始まっているところはすでに始まっているのだなと感じました。八戸の川村さんが、避難所で、本当に仕事もないしやることがないから、みんなで出来ることが
本当に必要なのだ、それがアートに出来るのでは、といっていました。もちろん地域によってその感じ方は全然違うと思います。
しかし、ひとつの糸口が見えたような気がします。

長い文章にお付き合いありがとうございました。
もし何か不適切な表現や書き方がありましたらお許しください。