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2011年6月24日金曜日

宮古報告(セレノグラフィカ 隅地茉歩)

<前書き>                           
 6月8日から二泊三日で、岩手県の宮古を訪れました。訪問先は5カ所でした。長いご報告になりますが、体験したことを出来る限り具体的にお伝えしようと思い、細かなことにも筆を伸ばしました。先日、今回の宮古訪問のコーディネーターでもある魁文舎の花光さんが写真付き報告文を発表されていますので、そちらとも併せてご覧下さればより解りやすいかと存じます。また、今回はあえて重複をいとわず、阿比留と私とでめいめい文章に残そうということになりました。総分量が多くなりますことをご容赦下さい。



<報告>
 現地に到着するまでは、メディアによる情報の中で知る避難所というものが、実際にはどのような場所なのだろうという緊張感を抱き続けていた。
 花巻空港からバスで小一時間で、まずは盛岡駅に到着。数年前ダンスとは関係なく旅行で来た時とさほど変わりはない。「ここはまだ内陸部だから」と自分に言い聞かせて宮古行きのバスに乗り込む。駅で集合した今回のクルーは5人(魁文舎の花光潤子さん、同じく松本千鶴さん、映像記録のたきしまひろよしさん、阿比留、隅地)。これから2時間半かけて東へ。海岸部に近づくと、車窓から、建設中の仮設住宅を見ることができた。
 現地に到着しても、震災後間もない頃に視察された方などからうかがっていた惨状をそのまま目にする事はなかった。3ヶ月近く経っているということもあり、急速に整備が進んだのだろう。花光さんたちが前回訪問された時とも、かなり様子が異なっているとのこと。遠く距離をおいて想像する被災地と、実際に目にする光景とのズレを感じざるを得なかった。自分たちの想像が、想像でしかなかったことを思い知る。
 宮古駅付近は、海岸線から3キロほど内側、宿泊したホテルの近辺に「解体OK」と赤いスプレーが噴き付けられた家屋が点在する。流れて来たと思しき板切れなどが、道路際のあちこちに固められたりしてはいるが、道路そのものはきれいに片付いていて、車両の通行に支障はなく、バスも通っている。被害の大きかった地域なので、ホテルのフロントに置かれていた、震災当日や直後の様子を伝える写真雑誌を見ると、確かにこの辺りまで浸水した様子が見て取れる。盛岡駅で阿比留と「水が買えないと困るだろう」とミネラルを購入したが、実際にはローソンも営業していたし、夕食は地元の魚料理店で食べることもできた。しかし、聞けばそのお店も浸水してしばらくは営業を停止していたらしい。この日は私たち以外にもお客さんが何組もいて、お店も賑わいを見せていたが。
花光さんが、阿比留と私のことを、関西からやって来たダンサーだとご紹介下さり、ダンスによる支援なのだと言われたことを受けて、お店のご主人や奥さんは「それはそれはご苦労さんです」と笑顔。ダンスでボランティアということの内容まではおそらく想像しにくいのだろうなあと考える。いろんなジャンルの人がボランティアとしてこの地を訪れ、この町の人たちが私たちを含めたそういう人々のことを快く受け入れようとして下さっていることを直に感じた瞬間だった。かくして初日の移動日は暮れ、めいめい明日からに備えて部屋へと引き揚げた。


 翌日目覚めたのはしかし、アラームでではなく余震でだった。震度4。小刻みな揺れがほんのしばらくあった後、建物全体が大きくきしんだので、私は思わず部屋を飛び出した。「津波の心配はありません」との放送が響く。東北に来たのだという実感に見舞われる。朝の打ち合わせの時にこの余震のことを話題にすると、花光さんたちに「もう慣れましたよ」と言われた。東京でも毎日余震が続いた時期があったとのことで、被災地からの、関西の遠さというものを実感した。

 9日。この日最初に訪問したのは【つどいの広場すくすくランド】(午前11時から小一時間程度)。駅前のキャトレというショッピングモールの最上階の5階にある子育てプラザのような場所である。対象は幼児から学齢前の子どもたち。広いフロアーにたくさん遊具が置かれ、お母さんたちが思い思いに我が子を遊ばせている。はいはいのできる絨毯の場所に集まって頂いて、お母さんたちにも混じってもらい足指グッパーなどから始めて行く。自分のおうちにはない大きなお人形や鉄道セット、私自身の知らないような珍しいおもちゃがお目当ての子どもたち相手になかなか大変だったが、サルとクマの着ぐるみに身を包み、すもうを取ったり、仲直りダンスをしたり。魁文舎の松本さんが行司で花光さんが音響係と全員体勢。打ち解けて来た子どもが小道具のバナナ(模型)を離さず噛んだりなめたりの一幕も。ふだんバレエを習ったりしているのか、開脚を見せてくれる女の子もいる。「またダンスしようね」との男の子の声に見送られて短めの交流を終えた。

 二カ所目の訪問先は【金浜老人福祉センター避難所】(午後2時から一時間程度)。対象は避難所のご高齢の方々と障害者の方々。こちらの所長さんである柳沢さんが、今回とてもお世話になった方で、午前のすくすくランドも見学して下さり、ここでは実際にワークを受けて下さった。高台にあるこのセンターには、十数名の高齢者の方たちが静かに暮らしておられる。お天気も風通しも良く、何より床が畳だったので横になって頂きやすかった。手先足先のほぐしから始めて、呼吸が深くなることを旨としたメニューをゆっくりと進めて行く。お一人お一人の身体をさすり、その時々の心地を尋ねながら肩甲骨や骨盤まわりを緩める。皆さんとても真面目に取り組んで下さって、私たちのしょうもない冗談に時折笑いも漏れる。最後は仰向けでリラックス。お昼寝の後の目覚めのように気持ち良さそうにして下さることに阿比留も私もほっとする。
終了後片付けをしていたら、参加者の方の中から「ダンスを踊るのを見せて欲しい」というお声があがったと聞き、6分のショートピースをご披露することにした。4月に神戸のダンスボックスの震災復興ライブで上演した「人が二人いるとそこには」である。音源を持参していて良かったと思った。座布団をひいて、ちんまりおかしこまりして下さったおばあちゃんたちに「私たちのやっているダンスは、音楽がない部分があったり変な動きがあったりするんですよ」と、ちょっと前説明。6分という短さがちょうど良かったのだろう。楽しんで頂けた感じで、笑顔や泣き顔の混じった拍手に阿比留も私も胸が熱くなった。

 3カ所目の訪問先は【藤原学童の家】(午後3時半から一時間強)。対象は小学生で1年〜4年。さきほどの施設の柳沢所長さんの車に先導されて川を渡り、到着すると、子どもたちは今か今かと待ち構えてくれていた様子。そのきれいな瞳の群れに感激する。これまでも数多くの小学校にアウトリーチに行かせて頂いているが、「よろしくお願いします」と元気な挨拶で迎えられたのは初めて。この瞬間ふだんのプログラムで大丈夫と直感する。まずは私たちのプレゼンダンスを見てもらい、みんなで歩くことから始めてどんどん一緒に集中していく。子どもたちの反応の良さや勘の鋭さに助けられ、思わず私たちも夢中になっていた。男女比およそ半々くらいの子どもたちは、家族が夕方迎えにくるまでの時間をここで過ごしている。家を流された子もいると聞いたが、どの子なのかわからない。どの子の笑顔もまぶしい。中学校でしかやらないプログラムもあえてぶつけてみたが、みんなで励まし合いながら取り組んでくれた。終わった後も腕相撲をしたり、得意技を見せてもらったり。お世話をされている先生方が「親御さんとの連携を大切にしている」と仰ったことに納得させられる。誰かに大切にされている確信を身体の中に持っている子はふわあっと開いて来る感じがあるからだ。まさにこの子たちは希望の固まりだと思った。別れが本当に名残惜しかった。私たちの車が運動場を後にする時。出口のところでずっと手を振ってくれていた澄み切った表情が忘れられない。

 この後、宮古漁港の辺りを視察した。ここも例に漏れずかなり整備が進み、前回と景観が異なっているとの花光さんたちの言葉。漁港の建物の激しい損壊の様子から、被害のすさまじさを想像することはできるのだが、マラソンをしている人のグループが通り過ぎていったり、バスが通っていたり、既に震災当時との時間の隔たりを思わせられもする。海もあくまで穏やかだ。このままある種の廃墟の美しさのようなものに変わっていくのではないかとの怖れを感じざるを得ない。もちろん歩きながら見渡せば、泥々の日記帳、アイロン、パソコンのキーボード、鍋、しゃもじなどががれきの中に散見する痛ましさはある。言葉少なに歩いていると、陸地に乗り上げた大きな漁船をクレーンが撤去するところにふいに出くわしたりした。花光さんがこの地方に伝わる黒森神楽の話をして下さる。古くから町や村に伝わってきているものの存続、それもまた支援の対象であることを認識し直した。

 4カ所目の訪問先は【津軽石中学校避難所】(午後7時過ぎから小一時間ほど)。対象は熟年から高齢者の方々。こちらの避難所は段ボールでの仕切りがない。男女混合であるにも関わらず、開放的なしつらえ。おそらく同じ地域からの方たちでお互いに気心が知れているということなのだろう。開始予定時刻よりも早く着いたが、皆さんのお風呂の時間が終わって戻って来られるのを待つ。夜9時には完全消灯ということで、就寝前の時間に当たっていることもあり、身体ほぐしも、ぐっすり眠れることに照準を合わせて行うことに切り替える。おおむね私たちの進めて行く内容についてきて下さるのだが、中には「やらへんで」というボディアクションの方もいる。当たり前だと思う。私たちを待ち望んでいた訳でもなければ、入れ替わり立ち替わりやってくる訪問者に食傷気味でもあるのだろう。ましてや夕食とお風呂の時間の後の、読書と決めている時間かもしれないのだから。そうとわかっていても、私たちには伝えたいことがある。これを試して頂ければ身体が少しでも楽になり、それに伴って心も少しほぐれるんですよということ。それが今大切だということ。避難所の方たちと触れ合う時、慎重であることは大切だが、腫れ物に触るようにするのは違う。少なくとも私はそう思う。釣りの雑誌に目を落として微動だにしない男性。でも背中をさすると拒否されていないのがその感触でわかる。私が隣の人の方に移ろうとした瞬間、小声で「ありがとう」とその人は雑誌を見たまま呟く。読んでいた文庫を脇に置いて、最後には気持ち良さそうに仰向いて寝そべる別の男性もいた。呼吸の深さが最初と全然違う。その人はご自分の名前を教えて下さり、私はその名を絶対に忘れない。夜の避難所の場の空気は、ゆっくりと変化して行った。

 中日の全行程を終え、一夜明けた最終日。5カ所目の訪問先は【宮古シーアリーナ避難所】(午前10時すぎから小一時間)。対象は一般から高齢者。ここは今回訪問した場所の中で最も大きい。自衛隊の滞在場所でもあるらしい。各地の避難所から統合されてきた人たちが集っていて、あまり気心が知れていない者同士ということもあるのか、段ボールのパーテーションの高さからも、プライベートを守ろうという意識が強いことが昨晩の津軽石の避難所との違いを感じさせる。ふだんはバスケットコ—トだったはずの広いスペースから、食堂になっている別室に誘い、身体ほぐしをすることに。世話係をつとめている職員の人たちも参加して下さった。体育施設なのでストレッチマットなどもあり、みんなで円陣になって手指から緩めて行く。ちょうど同時期に野田村で支援を展開しているJCDNの神前沙織さんや、ダンサーの佐藤美紀さんが助っ人にかけつけて下さって、お一人お一人のケアーに力を貸して下さった。本当に感謝している。このシーアリーナ。寝起きしているスペースからワークの実施会場である別室に皆さんを誘い出すこと自体いささか骨の折れることではあったが、参加して下さった方の表情や血色が徐々に明るくなることを係員の方も喜んで下さった。今日みんなで試したことを一つでも二つでも日課にして欲しいと願う。

 かくして予定していた全行程を終え、7人全員で反省会を兼ねて向かいのケンタッキ—フライドチキンでお茶を飲み、地元の教育委員会を訪ねる花光さん松本さんたきしまさん組と、私たちを車で宮古駅まで送って下さる佐藤さん神前さん組は別れた。抜けるような快晴の空だった。
 花巻空港からの夕方の帰路の便は豪雨で大幅に遅れ、高速道路も豪雨でかなりの渋滞だった。帰宅するまでずっと、私は宮古で出会った方たちのことを考えていた。

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<まとめに代えて>
 あれから丸二週間。日を追うごとに記憶は鮮明になるばかりだ。今回は2才や3才の小さなお子さんから、86才のおばあちゃんまで、幅広い年齢層の人たちに触れた。文字通り、触れたのである。一人一人の方の背中。さするとちょっとずつ緩んで行く感触は、触った人間の手のひらにしか伝わってこない。
予想よりもずっと普通に消費生活を享受していた駅前の人たち。そこから車ですぐのところに起居する避難所の方々。その落差。
 仮説住宅の建設とそちらへの入居が急ピッチで進む中、避難所を訪れるには最後の好機だったということも痛感した。仮説に移れば当然プライベートは避難所とは比較にならないほど守られるようになるだろう。しかし改めて募る孤独感、時間差で襲ってくる徒労感のようなものはどう癒されていくのか。今回出会ったお年寄りの方たちは、身体がほぐれてくるといろんなお話を聞かせて下さった。私に、膝が痛いのをどうしたらいいかと尋ねて下さったおばあちゃんは、「この膝がこうなったのはね、がれきと泥を一輪車で7回も運んだから                               
なのよ」と繰り返し話してくれた。7回。この数字を語ることが、その人にとってどれだけ重要なことか。その人にしか語れない言葉。そして、その人に語られることを待っている言葉。それを外へ出すために身体はほぐされるべきなのだ。
 被災地、避難所、と便宜的に総称するが、一つとして同じところはない。そして一人として同じ被災者はいない。被災された方々に固有の身体があるからである。宮古で出会った大人の方たちに伝えたかったこと。それは「身体は、持ち主に大事にしてもらえることを一番喜ぶんですよ」ということだった。そういうことを共有していけた上で、一緒に踊ってみたいとさらに願わずにはいられない。建物や町の外観がせき立てられるように整えられることと、身体が回復していくこととでは、時間の流れが明らかに違う。
 今回宮古で過ごした3日間。これは、始まりだ。

 2011年6月24日金曜日

                 文責:セレノグラフィカ 隅地茉歩

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